早河シリーズ第四幕【紫陽花】
 私は私の仕事をする。
 何が起きても、どんな困難があろうとも。
 私は女優、本庄玲夏で居続ける──

 マネージャーの沙織が毒針に刺された事件から4時間後、玲夏はテレビ局のメイクルームで西森結衣にメイクを施されていた。結衣が玲夏の顔にファンデーションを塗っている。

「山本さんが急病で倒れたって聞いたけど、大丈夫なの?」
「うん。ちょっと過労気味だったみたい。少し入院すれば良くなるって」

スキャンダルを避けるために公には沙織は体調不良で入院したことになっている。数時間前まで軽度のパニック状態だったとは思えないほど、今の玲夏は完璧に平常心を保っていた。

 今日はこれから【黎明の雨】のスタジオ撮影だ。メイクが終わり、スタジオ入り。リハーサルを繰り返して本番の合図がかかると玲夏の顔が変わった。

そこにいるのは女優を辞めると言って泣いていた本庄玲夏ではなく、黎明の雨の主人公、白峰柚希だった。

         *

 静まり返るテレビ局の廊下に響く自分の足音がやけに大きく聞こえる。本庄玲夏様と札のかかるメイクルームの前で立ち止まった速水杏里は一度呼吸を整えた。

素早く左右を見回して人の気配がないことを確認して、ゴム手袋を嵌めた手でドアノブを回す。メイクルームの棚に置かれた玲夏の私物のバッグを漁り、玲夏のメイクポーチから口紅を一本取り出した。

 一瞬だ。一瞬で終わる。

(これをやらなければ……やらなければ私は……)

 杏里が握り締めているのは少量の液体が入った小瓶と携帯用の小さなリップブラシ。小瓶を開けてブラシを無香の液体に浸す。
手が震えている。足が震えている。玲夏の口紅も、杏里の手の振動で震えていた。

口紅のキャップを外して少しだけ繰り出したピンクベージュの口紅の先端部分にブラシに染み込ませた液体を塗りつけた。

(これでいいのよね……?)

震える身体をかろうじて支えて、キャップを締めた口紅をポーチに戻した。

『そんなところで何してる?』

 男の声が聞こえて杏里の肩が跳ね上がる。シャワー室に繋がるカーテンが開いて杏里の知らない男が現れた。
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