早河シリーズ第四幕【紫陽花】
 早河はブラックコーヒーを飲み干すと耳障りなテレビを消した。二杯目のコーヒーと煙草を楽しんでいるところに呼び鈴が鳴った。
このメロディは事務所の呼び鈴ではなく、早河の居住スペースである三階直通のガレージ横の呼び鈴だ。

 階段を降りて玄関を開くとサングラスをかけた本庄玲夏が立っていた。

「相変わらず朝はだらけた格好してるのねぇ。お客が来る前に髭くらい剃りなさいよ」
『お前が来るのが早いんだよ』

 軽口を交わして玲夏を自宅に入れる。彼女と会うのは女優を辞めると泣きついてきたあの日以来。思ったよりも元気そうな玲夏の姿に安堵した。
焦げ茶色のソファーに並んで座った。

「今回は本当にありがとう。あなたに依頼してよかった」
『大したことはしてない。これが俺の仕事だ。それより出歩いて平気か? マスコミが色々と騒いでるだろ』
「社長が根回してくれたから、私は今は“横浜にいる”ことになってるの。マスコミは嘘の情報に騙されて横浜に流れてる」
『さすが吉岡さんだな』

エスポワールは被害者側、加害者側の所属事務所となってしまったが、吉岡社長は転んでもただでは起きない人間だ。

「しばらく私も蓮もマスコミに追いかけ回されるだろうけど、これくらいで潰されるやわな人間じゃないから大丈夫。芸能人は騒がれるのも商売」
『お前も一ノ瀬蓮も強いな』

 ソファーの肘掛けにもたれて頬杖をつく早河の片手は自然と玲夏を迎えていた。2年前はこうして抱き合うのが当たり前な二人だった。

 静寂な時間がゆっくり流れる。たぶんこれは本当の意味でのサヨナラの儀式。
サヨナラは笑って言いたいのに、玲夏の閉じた瞼の裏側には涙が溜まっていく。

『玲夏のこと、本気で愛してた。俺の側にいてくれてありがとう』
「私も本気で愛してた。大好きだったよ」

 最後の抱擁は苦しいくらいに力強く。気が遠くなりそうなほど長い時間をかけてようやく辿り着いた終着点。

 愛情の果てにあるものは、たとえば憎しみだったり、たとえば欲望だったり、それぞれ違う。
もしもこの二人の愛情の果てにあるものに名前をつけるのならそれは信頼と呼ばれるものになるかもしれない。

 そして二人は手を離す。

“さようなら、また会いましょう”

最後は笑顔で過去に向かって手を振った。
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