早河シリーズ第四幕【紫陽花】
第一章 梅雨、たびたび動揺
6月5日(Fri)

 今日梅雨入りが発表された東京は、朝から雨が降っていた。梅雨に相応しい灰色の空から絶え間なく落ちる雨の海を人々は顔をしかめながら歩いていく。
予報によると夕方から雨脚は強まり夜には雷雨になるらしい。

 香道なぎさは東京メトロ四谷三丁目駅の階段を息を弾ませながら上がっていた。彼女はライターの仕事の帰りだ。

早河も今日は朝から出掛けていて夕方まで帰らない。今からのなぎさの仕事は定時まで事務所の留守番をすることだ。

 雨に濡れた道を歩くなぎさの足元では、先日購入したばかりの黒のショートタイプのレインブーツが雨水を弾いている。新宿通りの交差点の角を曲がって相変わらず止まない雨の中をしばらく歩いていると、早河探偵事務所の三階建ての建物が見えた。

(事務所の前に誰かいる……)

 灰色一色の景色の中に、まるでそこだけ紫陽花が咲いているような薄紫色の傘が早河探偵事務所の前に浮かび上がっている。背格好からして薄紫の傘の人物は女性だとわかった。

女性の視線の先は傘に隠れて見えないものの、早河探偵事務所の建物を見上げているように思える。

(今日は来客の予定はないはずだけど……)

「あの……私、早河探偵事務所の者ですが、うちに何か?」

 薄紫の傘が動いて女がなぎさへ顔を向けた。彼女はダークブラウンのストレートのロングヘアーに色の濃いサングラスをかけている。

女性は傘の隙間からなぎさを見つめる。しばしの沈黙の時間、傘に当たる雨音がやけに大きく聞こえた。

「あなたはここの探偵さん?」
「いえ、私は所長の早河の助手をしています」
「助手……。そう」

この女性とはおそらく初対面のはず。だが、なぎさは彼女の声をどこかで聞いたことがある気がした。

「ご依頼でしたら、どうぞ中にお入りください」
「でも早河さんはお留守のようだけど?」
「早河は夕方には戻ります。お時間がよろしければ中でお待ちになってください」

 なぎさは彼女を連れて螺旋階段を上がり、二階の早河探偵事務所に招き入れた。広い部屋をパーティションで仕切った奥に応接用のソファーがある。彼女をそこに案内するとなぎさは名刺を差し出した。

女性はサングラスをかけたままなぎさの名刺を見つめている。

「香道なぎささん……綺麗な響きね」
「ありがとうございます」

女性はなぎさの名刺を見て何か考え込んでいる様子だった。名刺を持つ手は白く、整えられた爪は素爪なのにとても綺麗だった。
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