早河シリーズ第四幕【紫陽花】
 スタンバイに入った真由と入れ違いに玲夏が戻ってきた。椅子に座る玲夏にミネラルウォーターのペットボトルを渡す。

玲夏の飲食物の管理には特に注意していた。嫌がらせがエスカレートすれば、たとえ毒物ではなくとも、玲夏の体調を崩させる何かを犯人が飲食物に混入する可能性もあるからだ。

「どう? 順調に探れてる?」
「順調ではあるんですけど、人間関係が複雑で……。全員怪しく思えてきてしまいます」
「人が集まればその数だけ感情があるからね。感情の糸が絡み合ってもつれて、ほどけなくなってしまう。ほら、あそこにも、もつれた糸があるのよ」

 玲夏が指差す先には待機用のテントがあり、そこには北澤愁夜と女性スタッフがいる。北澤が女性の耳元で囁き、女性は照れて笑っていた。その様子を遠くで速水杏里が睨み付けている。

「……撮影現場が修羅場ですね」
「北澤さんも悪い人ではないのよ。あれでも演技の質は良いから、磨けば光る人なの。だけど女に関しては手当たり次第だから杏里も大変ね」

 意外にも北澤に対する玲夏の見方は悪くはなかった。女癖が悪いからこそ嫌悪されているが、役者としての彼の能力を玲夏は評価している。

北澤と馬が合わないのはどちからと言えば一ノ瀬蓮の方だろう。

「なぎさちゃんは【黎明の雨】の原作は読んだことある?」
「はい。私、原作者の柏木都さんのファンなんです。【黎明の雨】も発売日に買って、徹夜で読み耽りました」

 ドラマの原作、【黎明の雨】が出版されたのは4年前。発売当初から実写化が期待されていた。

「あなたはあの結末、どう思った?」
「結末を読んだ時は泣きました。真犯人は別の人であってほしいって……。フィクションの世界なのに、本気でそう思ってしまうなんて変ですよね」
「そんなことないよ。現実と小説の境目がわからなくなるほど物語の世界に惹き込まれていたのよ。私達役者も原作に負けないように、見ている人が現実を忘れるくらいの芝居をしないとね」

 スタッフが玲夏を呼ぶ。またスタンバイの時間だ。主演の玲夏は休む暇もない。

「今夜はナイターもあって長丁場になるから、なぎさちゃんも休める時に身体休めておくのよ」
「はい。今夜はラストシーンの撮影ですよね」

 原作の最終章の描写は夜の闇に降り注ぐ大粒の雨、車のヘッドライトが照らす赤い傘、神戸の夜景を背景にして涙を流す柚希の視線の先にいるのは妹を殺した真犯人。

衝撃的な結末に涙を流した夜をなぎさは今でも覚えている。

ドラマ版でも雨の降る神戸港で玲夏が演じる柚希は犯人と対峙する。今夜はそのクライマックスシーンの撮影だ。

「ラストシーンは雨の場面だけど、この天気なら人工の雨を降らせなくても天のお恵みで撮影できるかもね」

 空を見上げた玲夏につられてなぎさも天を仰ぐ。白っぽく霞んだ曇り空から霧のように細かな雨粒が落ちてきて、地面を濡らしていた。
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