早河シリーズ第四幕【紫陽花】
 ふわふわとした笑顔や雰囲気、話し方まで愛らしい乃愛にはついつい警戒も薄れる。行きの新幹線で席が一緒になって以降、何故か妙になつかれてしまった。

「実はご相談があるんです。平井さんが亡くなったこんな時にお話することでもないんですけど、乃愛、好きな人がいるんです」

 そう言って乃愛はいちごパフェの最上部のいちごを口に運んだ。

「でもその人は別の人が好きなんです。その女の人は乃愛が憧れている人で……二人が幸せになってくれるならそれでいいって思います。でも、諦められなくて」

なぎさは相づちを打ちつつ、人物相関図を思い出した。乃愛の恋の矢印の先は一ノ瀬蓮だ。

(乃愛ちゃんの好きな人は一ノ瀬さんよね? 一ノ瀬さんが好きな人が乃愛ちゃんの憧れの人……ってことは一ノ瀬さんの好きな人って玲夏さん? やっぱりそこで三角関係になっちゃうのっ?)

「もし秋山さんの好きな人が他の女性を好きだったとしたら、秋山さんはその人を諦められますか?」
「私は……うーん」

 言葉に詰まった。もうあの恋から2年になる。苦しい思い出しかない不倫の恋。
好きな人には、別の決まった相手がいた。彼の左手薬指の指輪を見ると虚しくなった。

「私が乃愛ちゃんの立場なら、気持ちだけは彼に伝えて、彼の負担にならないように笑顔でサヨナラするかな」
「サヨナラしちゃうんですか?」
「だって、もし彼と付き合えたとしても彼の一番は私じゃない。いつかは一番になれるかもと願いながらの形だけの恋人なんて辛いだけだよ」

不倫相手の男の顔がおぼろ気に脳裏をかすめた。不思議なもので、あんなに恋い焦がれた相手の顔を今はぼんやりとしか思い出せない。
人間の記憶ほどいい加減なものはない。

 乃愛に気付かれないように、そっと下腹部に触れる。
 忘れてはいけないのはこの痛みだけ。あの人との間にできた、産まれることの叶わなかった命。

あの人のことは忘れても、この体に宿った命の重みは絶対に忘れない。これがなぎさの十字架だ。

「秋山さん、やっぱり大人ですね。乃愛は子供だなぁ。二番目でもいいから彼が欲しいって思っちゃうの。ダメダメですよねぇ」

 弱々しく笑う乃愛になぎさは優しく微笑みかけた。
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