早河シリーズ第四幕【紫陽花】
 北澤がいなくなったエレベーターホールで蓮に抱き締められた。

(なになになにっ! なんなのこの状況っ!)

確かに軽くてチャラいが、人気、実力共に一流俳優の一ノ瀬蓮に抱き締められているこの状況をどう受け止めればいいかわからない。

「一ノ瀬さん……もう離してもらっても大丈夫ですよ?」
『もう少しこのまま』

 彼は甘えるようになぎさの髪に鼻先をつけている。北澤に迫られた時は嫌悪感しか感じなかったが、蓮に抱き締められても不快感はなかった。

(乃愛ちゃんの部屋って十階だったよね? 十一階じゃなくてよかった。けど北澤さんには変な誤解されたなぁ)

こんな現場を乃愛に見られたらショックを受けるに決まっている。まず、蓮の女であることがまったくの事実無根だ。

『なぎさちゃんの上司が心配して一輝を助っ人に来させた理由がわかった気がする』
「え?」
『危なっかしい、方向音痴、隙あらばすーぐ男に口説かれてる。撮影中に加賀見さんにも口説かれてただろ。目が離せないっつーか、今のだって俺がいなかったら北澤に食われてたぞ』

 諭す口調で言う蓮はなぎさの頭に自分の顎を乗せている。恐る恐る触れた彼の背中は温かく、大きかった。

「ごめんなさい……」
『よしよし。知らない人にはついていってはいけませんよ?』
「ついて行ってはいませんし、北澤さんは一応知らない人ではないと思います」
『例え話。んー。でも気持ちいいな。なぎさちゃんの体、抱き心地最高』
「……変態……」

 言葉とは裏腹に抱き付く蓮の手つきに嫌らしさは感じない。彼のぬくもりは天国にいる兄と同じような、優しさだ。

そう、一ノ瀬蓮の雰囲気にはどことなく、兄の香道秋彦の面影を感じる。だから不快感が生まれない。姿形はまるで兄とは違うのに。

『人気俳優に向かって変態なんて言うのなぎさちゃんくらいだ。玲夏の部屋行くの?』
「はい。様子を見に行こうかなって」
『俺も暇だから一緒に行くよ。一輝がさ、なんか裏でコソコソやってて忙しそうなんだ』
「矢野さんは多分、平井さんのことで動いているんだと思いますよ」

 玲夏の部屋は十一階の西側。二人は西側の通路に向かった。
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