早河シリーズ第四幕【紫陽花】
 605号室の部屋で矢野一輝は携帯電話に接続したイヤホン越しに警視庁刑事の小山真紀と話をしていた。

{やっぱりダメ。兵庫県警が自殺で片付けようとしている事件を私が殺人事件として捜査するのは無理がある。越境捜査になるから、県警からの正式な協力要請がないと動けない}
『だよなー。うん、ごめん。今の頼みは忘れて。真紀ちゃんが俺のために始末書ものになるのは俺も嫌だから』

飴色のデスクには矢野の愛用のノートパソコンが置かれ、彼の指は忙しなくキーの上を滑る。

{別に矢野くんのためじゃないわよ。もし平井が他殺なら殺人犯がその中にいるんでしょ? 私は玲夏となぎさちゃんが心配なだけ}
『二人は俺が守る。俺だけじゃなく、こっち側の味方に一ノ瀬蓮もいるしね』

 キーを打つ手を一旦休めて、傍らに置いたコーヒーを飲んだ。
ホテルの部屋に常備されているコーヒーは有名な飲料メーカーの製品だ。それでもEdenのコーヒーに比べれば味が劣るのは仕方ない。

{その一ノ瀬蓮だけど、本当に彼を信用して大丈夫なの? もしかしたら玲夏に一番近い人間が犯人かもしれないのよ}
『確かに敵は味方の中にいることもあるだろうけど、一ノ瀬蓮は信用していいと思う』
{どうして?}
『なんとなく。情報屋の勘』
{その勘で動くところ、早河さんと同じだね}

真紀が笑っていた。好きな人の笑顔を想像するだけで柄にもなく体が熱くなる。

(真紀ちゃんにはとことん骨抜きだな)

{さっきからカタカタ音が聞こえるけど何してるの?}
『何してると思う?』
{パソコン?}
『そう。ハッキング』
{……はぁ?}

彼女のすっとんきょうな声がイヤホンに響いた。

{ハッキングって、矢野くん何やってるのよ!}
『いやー、神戸中央署のパソコンをね、ちょっと覗かせてもらおうと思って。あの馬面刑事じゃ情報流してくれなさそうだから』
{無茶苦茶なことして……逮捕するよ?}
『いいよ。俺を逮捕しに神戸まで来いよ。夜景が綺麗に見えるスイートルーム予約して待ってる』

口調は軽いが、矢野の両手10本の指がキーの上で止まることはない。

{馬鹿じゃないのっ? 警察のパソコンをハッキングするなんて重罪よ?}
『だから逮捕しに来てよ。惚れた女にならワッパかけられても文句ない。逮捕の前に神戸でデートしよっか。三ノ宮行って買い物して、中華街で飯食べて、ハーバーランドで夜景見てスイートルームにお泊まりコースでどう?』
{……私も忙しいの。神戸には行きません。いい? 絶対にバレないようにやりなさいよ?}
『俺の心配してくれて嬉しいねぇ』
{はぁ? 違います! 矢野くんがヘマして捕まったら玲夏となぎさちゃんに迷惑かかるでしょう。それだけ。じゃあねっ}

 一方的に言い終えて真紀は通話を切ってしまった。
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