早河シリーズ第四幕【紫陽花】
 矢野は不通になったイヤホンを耳から外して口元を上げる。

『照れちゃって、可愛いなぁ。……さて、やるか』

 真紀との電話で緩めた口元を引き締めて彼は目付きを変えた。ハッキングで神戸中央署のデータベースに侵入して捜査状況を探る。

予想通り、神戸中央署は平井の死を自殺として処理するつもりだ。

 詳しい解剖結果は出ていないが、平井を死に至らしめた毒物は筋弛緩剤として病院や大学の薬学部にも置いてあるものだった。

その毒物は少量でも体内に入れば骨格筋を麻痺させて呼吸困難を起こし、最後は窒息死する。

(病院や大学に忍び込めば手に入れられる物か。今はネットでも裏取引があるしなぁ)

 データベースを閲覧すると、平井の湯呑みについての記載があった。湯呑みに残されていた指紋は平井透の右手5指及び左手5指のみ。

(湯呑みにあったのは平井の指紋だけ?)

 先ほどホテルの料理長に確認したが、客が使用した湯呑みはまず手洗いで洗い、食洗機にかけてから保存用トレーに並べるらしい。

並べる際は、手が滑って湯呑みを落とさないために手袋を使わず素手で並べると言っていた。

 当然、湯呑みにはしかるべき箇所に調理場の人間の指紋がつく。しかしホテルスタッフが朝食準備で各自の席に湯呑みを配置したにも関わらず、平井の湯呑みには彼の指紋“しか”残されていない。

平井の湯呑みにはついているはずの調理場の人間の指紋やホテルスタッフの指紋がなかった。

 形式的にあの宴会場にいた全員の指紋採取と全員分の湯呑みの指紋検出も行われている。関係者の名前の横に、誰の指紋が湯呑みのどこに付着していたのかが書かれていた。

矢野となぎさの湯呑みからは、湯呑みを使った本人の指紋以外にも調理場や朝食準備をしたスタッフの指紋も検出された。そうなると、なおさら平井の湯呑みだけが彼の指紋しかなかったことが不自然だ。

(どういうことだ?)

彼はパソコンの画面を凝視する。

 本人以外の誰の指紋もついていない湯呑みを使った人間が平井の他にもうひとりいた。
湯呑みの持ち主の名は、一ノ瀬蓮。
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