早河シリーズ第四幕【紫陽花】
 雨に滲む灰色の街は水墨画の世界みたいだ。見慣れた早河探偵事務所の建物の螺旋階段を上がり、事務所の鍵を開けて中に入った。

濡れたキャリーバッグを事務所の入口に立て掛け、室内を見渡した。部屋は静まり返っている。

「ただいま戻りましたー……所長?」

早河の愛車はガレージに駐まっていた。外出はしていないはずだ。新幹線に乗る前に送ったメールの返事もない。

静かな部屋はそれだけで人を心細くさせる。早河の存在を感じられないこの事務所は全く知らない別の場所のようだった。

 なぎさはパーティションの向こうを覗いた。パーティションで仕切られた応接間のソファーに早河が横になっている。

「所長……? ええっ? どうしたんですか?」
『……おぉ……おかえり……』

 赤い顔をして荒い呼吸を繰り返す早河がうっすらと目を開けた。なぎさはソファーに駆け寄り、寝ている早河の額に手を当てる。
テーブルに転がる体温計の存在で状況は察した。

「熱、何℃ありました?」
『昼に測った時に……38だった』
「そんなに……。病院は?」
『行ってない。寝てれば治る』

こういう時の早河は頑固だと、なぎさはこの1年の付き合いで心得ている。彼は自分のことに関してはとことん無頓着だ。

「こんなところで寝ていたら余計に悪化します。上で休んでいてください。階段、上がれますか?」
『ん……大丈夫だ……』

 早河の身体を支えて彼を立ち上がらせた。彼の身体は熱く、苦しげな吐息がなぎさの耳に触れて心臓が大きく跳ねた。

(所長が熱出してる時に何を考えているんだろう……)

早河とは別の意味で身体が熱い。なぎさが照れていることも今の早河は気付かない。

 事務所の奥にはトイレと給湯室が並び、狭い通路を抜けると早河が自宅にしている三階に通じる階段がある。
彼が階段を上がって自宅に入るのを見届けたなぎさは事務所の仕事に取りかかった。

 まずはなぎさが留守にしていた間に荒れ果てた事務所の掃除を始めた。
早河もあの状態だ。ろくに掃除やゴミの仕分けもできなかっただろう。

窓を開けて雨の匂いを含んだ空気を室内に入れる。掃除機をかけ、ゴミをまとめ、トイレ掃除が終わった頃には帰って来て1時間は経過していた。
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