早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 僕がその手紙を読んだのは8月30日の夜、予備校の授業を終えた後だった。手紙は予備校の教務室の僕のデスクの上に教材に挟まった状態で置かれていた。

 夕方、今日は予備校の授業がない杏奈がここに来たらしい。僕のデスクにこの手紙を置いて杏奈はすぐに帰ったと同僚の講師が言っていた。

僕は受け持ちのクラスの授業をしていて杏奈が来たことは帰り支度にこの手紙を見つけるまで知らなかった。

 可愛らしいサクランボ柄の封筒と揃いの便箋には杏奈の丸っこい字が綴られている。手紙を読んで血の気が引いた。
すぐに杏奈の携帯に電話する。コール音は聞こえるのに杏奈はなかなか電話に出ない。

{……先生?}

 何度も、何度もかけ直して、ようやく杏奈の声が聞こえた。僕は目を押さえる。涙が滲んでいた。

『杏奈! 今どこにいる?』
{ナイショ}
『お願いだ教えてくれ! お前……死のうとしてるのか?』

杏奈は無言だった。とにかく、杏奈が居場所を教えてくれたら駆けつけられるように駅に急ぐ。側の大通りから聞こえるクラクションの音がうるさかった。

{教えたら先生、私の所に来ちゃうでしょ?}
『当たり前だろ!』
{じゃあダメ。先生を死なせたくないもん}
『杏奈っ!』

 もしかしたら彼女は自宅にいるかもしれない。杏奈の家の住所を正確には思い出せず、こんな時に役に立たない自分の頭に苛立った。

{先生、ごめんなさい。1年半は長すぎなんだぁ……}
『大丈夫。僕が杏奈を守る。だから……』

 だから死ぬな……その一言がどうしても言えなかった。生きていくことが辛い人間には〈死ぬな〉も〈頑張れ〉もただの薄っぺらい言葉に過ぎない。

{もう充分、私は先生に守ってもらったよ。先生に出会えて幸せだった}
『僕は本気で杏奈を愛してる。だからお願いだ。僕のために生きてくれ』

涙が頬を流れる。立っていられなくなって歩道にうずくまった。

{ごめんね。先生のために生きるには私はもう電池切れなの}

最愛の人が今から死のうとしているのに、泣くことしかできない非力な自分が情けない。

{泣かないで、先生。私、もしも生まれ変わったら次は最初から先生のお嫁さんとして生まれてきたいな。それでね、先生の子供を産んで、家族みんなで笑い合って幸せになるの。楽しそう。早く……そうなるといいなぁ}

 杏奈が通話を切った。僕も電池が切れたロボットのように茫然自失で電車に揺られ、帰宅した。
部屋の中で泣き崩れる僕を二匹の金魚が見つめている。……二匹?

金魚鉢の中を泳いでいるのは二匹だけ。杏奈がアンナと名付けた赤い金魚だけが、金魚鉢の底で横たわって動かなくなっていた。

まるで杏奈と一心同体のように。
< 108 / 171 >

この作品をシェア

pagetop