早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
続々と会議室を去る会員達を見送って、松田が美月の席まで歩いてくる。
『浅丘さん、久しぶり』
「お久しぶりです」
『もう大丈夫? まだ色々と言われたりしてない?』
5月に大学構内で発生した准教授殺人事件。事件に関連して美月を中傷するメールが出回り、美月は誹謗中傷に晒された。
騒動は収束しつつあるものの、余波はまだ残っている。復学した今でも陰口を言われることはあった。
「大丈夫です。わかってくれる人だけがわかってくれるなら、それでいいんです。先輩には休学中もメールや電話で励ましてもらって……嬉しかったです」
美月の微笑みに松田は照れ臭そうに顔をそらした。二人を見ていた後輩の橋本がにやついた顔で講義室を出る姿が見える。
『浅丘さんは大事な後輩だからね。心配するよ。でも復学できて本当に良かった』
彼はしばらく自分の足元を見ていた。黙り込む松田を怪訝に思い、美月は「先輩?」と声をかける。
『この後、時間ある?』
「この後ですか? ありますけど……」
『久々に会えたことだし、どこかでゆっくり話さない?』
顔を上げた松田の視線がいつもと違うように見えた。なにかを決意したような、そんな眼差しだ。
「どこかって……?」
『心配しなくても変な場所には連れて行かないよ。近くのカフェでお茶でも飲みながら話そう』
明るく笑う松田の口調にはいやらしさが微塵もない。松田と隼人は確かに似ていても、プレイボーイではないところは隼人とは違う。
美月は彼の申し出を承諾した。
キャンパスを出た美月と松田は青山通りに出て通り沿いのカフェに入った。
先月にオープンしたばかりのカフェは店内にドライフラワーが吊るされ、丸いウッドテーブルと合わせてお洒落な雰囲気だ。
青山通りを見通せる窓際の席に向かい合って座る。松田はアイスコーヒーを、美月はキャラメルラテとレモンタルトを注文した。
『さっきの人魚姫の話、俺は人魚姫こそミステリーの舞台にぴったりだと思うんだ』
「人魚姫は王子様を殺せなくて泡になって消えてしまいますよね。王子様は真実を知らずに人間の女と幸せに暮らしておしまい。人魚姫の話はフェアじゃなくて私は好きにはなれません」
美月は三角形のレモンタルトの頂点にフォークを入れた。前に、似たような三角形のレモンパイをどこかで食べた記憶がある。
どこであったか思い出して、美月は慌てて記憶を封じた。
『だから、そこで殺人の動機が成立するんだよ。人魚姫が人間の女を殺せばいい』
「先輩って本当にいい趣味してますよね」
サークル内でも松田のミステリー好きは有名だが、彼は童話でもラブコメでも純粋なラブストーリーでも何でもミステリー要素を持ち込む癖がある。
そこが彼の面白いところだ。
話し声と流れるBGMでざわつく店内には大学の近くだけあり、入店してきた松田の同級生と思われる何人かの男子学生が松田に声をかけて奥の席に座っていく。
松田は同級生達とわずかに言葉を交わし、美月に向き直った。
『はぁ……。ここを選んだのは失敗だったかも』
「失敗?」
『いや、この店、コーヒーが美味いから意外と男も来るんだなーって。話の続きだけど、童話だって現実だってフェアじゃないよね。大抵はアンフェアな中で生きている。アンフェアの中に少しでもフェアな出来事があると人は喜ぶんだ』
「そうですよね。……現実はアンフェアなことだらけです」
現実はアンフェア。彼女が最初にそのことに気付いたのはいつだった?
『浅丘さん、久しぶり』
「お久しぶりです」
『もう大丈夫? まだ色々と言われたりしてない?』
5月に大学構内で発生した准教授殺人事件。事件に関連して美月を中傷するメールが出回り、美月は誹謗中傷に晒された。
騒動は収束しつつあるものの、余波はまだ残っている。復学した今でも陰口を言われることはあった。
「大丈夫です。わかってくれる人だけがわかってくれるなら、それでいいんです。先輩には休学中もメールや電話で励ましてもらって……嬉しかったです」
美月の微笑みに松田は照れ臭そうに顔をそらした。二人を見ていた後輩の橋本がにやついた顔で講義室を出る姿が見える。
『浅丘さんは大事な後輩だからね。心配するよ。でも復学できて本当に良かった』
彼はしばらく自分の足元を見ていた。黙り込む松田を怪訝に思い、美月は「先輩?」と声をかける。
『この後、時間ある?』
「この後ですか? ありますけど……」
『久々に会えたことだし、どこかでゆっくり話さない?』
顔を上げた松田の視線がいつもと違うように見えた。なにかを決意したような、そんな眼差しだ。
「どこかって……?」
『心配しなくても変な場所には連れて行かないよ。近くのカフェでお茶でも飲みながら話そう』
明るく笑う松田の口調にはいやらしさが微塵もない。松田と隼人は確かに似ていても、プレイボーイではないところは隼人とは違う。
美月は彼の申し出を承諾した。
キャンパスを出た美月と松田は青山通りに出て通り沿いのカフェに入った。
先月にオープンしたばかりのカフェは店内にドライフラワーが吊るされ、丸いウッドテーブルと合わせてお洒落な雰囲気だ。
青山通りを見通せる窓際の席に向かい合って座る。松田はアイスコーヒーを、美月はキャラメルラテとレモンタルトを注文した。
『さっきの人魚姫の話、俺は人魚姫こそミステリーの舞台にぴったりだと思うんだ』
「人魚姫は王子様を殺せなくて泡になって消えてしまいますよね。王子様は真実を知らずに人間の女と幸せに暮らしておしまい。人魚姫の話はフェアじゃなくて私は好きにはなれません」
美月は三角形のレモンタルトの頂点にフォークを入れた。前に、似たような三角形のレモンパイをどこかで食べた記憶がある。
どこであったか思い出して、美月は慌てて記憶を封じた。
『だから、そこで殺人の動機が成立するんだよ。人魚姫が人間の女を殺せばいい』
「先輩って本当にいい趣味してますよね」
サークル内でも松田のミステリー好きは有名だが、彼は童話でもラブコメでも純粋なラブストーリーでも何でもミステリー要素を持ち込む癖がある。
そこが彼の面白いところだ。
話し声と流れるBGMでざわつく店内には大学の近くだけあり、入店してきた松田の同級生と思われる何人かの男子学生が松田に声をかけて奥の席に座っていく。
松田は同級生達とわずかに言葉を交わし、美月に向き直った。
『はぁ……。ここを選んだのは失敗だったかも』
「失敗?」
『いや、この店、コーヒーが美味いから意外と男も来るんだなーって。話の続きだけど、童話だって現実だってフェアじゃないよね。大抵はアンフェアな中で生きている。アンフェアの中に少しでもフェアな出来事があると人は喜ぶんだ』
「そうですよね。……現実はアンフェアなことだらけです」
現実はアンフェア。彼女が最初にそのことに気付いたのはいつだった?