早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
『そんなに苦しいなら……俺のところに来る?』

 彼は掴んでいた美月の腕を引き寄せて彼女を胸元に押し付けた。

 松田のもとに行けばこんなに泣かなくても済むのだろうか? 隼人が好きなのに佐藤を忘れられない罪悪感で自分を責めて、隼人の心にいる女の存在に怯えなくても済むのだろうか?

松田のところに行ったって、隼人を傷付けた罪悪感と佐藤を忘れられない苦しみはきっと変わらない。それでも……。

「やっぱり先輩は……意地悪なくらいがいいですよ。優し過ぎる……」
『だから前にも言っただろ。俺が優しくするのは好きな子だけ。……好きなだけ俺を利用しろよ』

 止めどなく流れる美月の涙が松田の服に染み込んだ。

「自分の気持ちが……わからないの」
『うん』
「隼人のことが好きなのに佐藤さんのこと思い出して会いたくなって、でも佐藤さんは死んじゃったからもう会えなくて、だけど会いたくて……佐藤さんに会いたくてたまらなくなるの……」
『うん』

美月の心の叫びを松田は受け止める。彼は泣いている美月の背中を優しくさすり、彼女の手からチューハイの缶を取り上げて床に置く。

「でも隼人を他の誰かに盗られるのは嫌で……私を助けてくれたリオって人に嫉妬して……こんな自分が嫌い。大嫌い……」
『俺は好きだよ。今こうして気持ちをさらけ出してくれる美月が好きだよ』

 どうして? ねぇ、どうして貴方はそんなに優しいの?

『振られたのに未練がましいよな。だけど俺もこうでもしないと諦めつかないんだ。好きな女の子が泣いてるのにほうっておくなんてできない』

美月は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。松田の温かな眼差しに心を奪われていく。

『美月の気持ちはわかってる。今だけ俺を利用しろよ』
「先輩……そんなんじゃ、いつか悪い女に捕まっちゃいますよ……?」
『それならもう捕まってる。いいんだよ。自分から捕まったんだから』

 彼と彼女の顔が近付き、触れ合う唇。何もかもを忘れるように、罪のキスを重ねた。

「私みたいな勝手な女……もう好きになっちゃダメですよ……」
『そうだな。ワガママで勝手で笑ってたと思えば哀しげな顔をして泣いて。危なっかしくてほうっておけない』

 ここにいるのは何者でもないただの男と何者でもないただの女。男はひたすらに女を想い、女はひたすらに男の愛に溺れる。

 この短い恋愛の唯一の目撃者は水槽を泳ぐ魚だけ。青い世界で悠々と泳ぐ魚達が二人を見下ろしている。

もう戻れない。引き返せない。
私は罪を犯しました。
どうしてこうなってしまったのか、自分でもわかりません。

私は強くなんかない。弱い人間なんです。
だから今だけはこの甘くて優しい愛に溺れていたいのです。
今だけでいいから、この人の温もりに溺れていたい。

 ゆらゆらと揺らめく青い世界で
 たった一夜の泡沫《うたかた》の夢を見よう……



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