早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 松田は腕時計を見た。時刻は間もなく午前5時。2時間近くもこの場所に居たことになる。

『そろそろ戻ろう。早い奴はもう起きる頃かもしれない』

 美月の手を引き、東側のエレベーターに向かう。人気《ひとけ》のない明け方の水族館はひっそりと静まりかえっている。

『そんな顔するなよ。離したくなくなるだろう?』

哀しげに松田を見上げる美月の髪を彼の大きな手がそっと撫でた。

「ごめんなさい」
『美月が謝ることは何もない。無理やり引き摺り込んだのは俺。……みんなが起きてきたら何があったかバレないようにするんだよ?』

 頷く美月の背後でエレベーターの扉が開いた。美月がエレベーターに乗り込むのを見届けた松田は壁に背をつけて頭を垂らす。

『一度きりでも幸せだったから……』

後悔はない。もし後悔があるとすれば、純粋の結晶のような彼女を罪の一夜の共犯者にしてしまったことだけだ。

 東側のエレベーターを降りて通路に出た美月は女子会員達が寝室にしているレクチャールームに入る気にもなれず、廊下の窓から夏の空を見ていた。

たとえ決定的な交わりはなくとも、体に残る松田のぬくもりは消えない。
罪の痕は消せない。消えない。

 太陽が少しずつ顔を覗かせて空の色を変える。夏の朝焼けの空は切ない曙《あけぼの》色をしていた。

(先輩……隼人……。ごめんなさい)

 サイレントモードにしておいた携帯電話にメールの通知が入っていた。松田からだ。


 ──────────
 俺はこのイベントで
 ミス研引退だけど
 卒業までは今まで通り
 先輩後輩で宜しく。

 それと彼氏以外の男の前で
 哀しい顔は見せないこと!
 泣くのは彼氏の前だけに
 しておくんだよ。
 でも何かあればいつでも話聞くから。
 ひとりで抱え込むなよ。
 ───────────


「先輩……最後まで優し過ぎるよ……」

 暑い夏に優しくて切ない恋物語
 その物語の題名は〈人魚姫〉



episode2.人魚姫 END
→episode3.蝉時雨 に続く
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