早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
『まーきちゃん』

 通りを歩いている時に聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。またか、と呆れて振り返ると電信柱にもたれて矢野一輝が立っている。
この男はいつもそうだ。いつもいつも、突然目の前に現れる。

(私の携帯のGPSでもハッキングしてるんじゃないでしょうね? 矢野くんならやりかねない)

 情報屋の矢野には時折、情報提供のために連絡をとるが今抱えている事件では矢野には協力を申し出ていない。

「今回は矢野くんは呼んでいないはずだけど、何か用?」
『えー。つれないなぁ。用がないと会いに来ちゃいけない?』
「私は用がないと会わないわよ」
『俺は用がなくても真紀ちゃんに会いたいな。今、真紀ちゃん達が追ってるのって品川で起きた連続通り魔のホシだろ?』

電信柱から身体を離した矢野がこちらに歩いてくる。

(なんで私がその事件の担当だって知ってるのよ)

 聞くだけ野暮な質問が喉元まで出かけたが、その言葉を飲み込んだ。矢野は情報屋だ。
警視庁の刑事がどの事件の捜査を担当しているか調べるくらい、きっと彼には容易い。

『その通り魔によく似た男が頻繁に出入りしてる風俗店があるの知ってる?』

矢野がニヤリと口元を上げた。そんな情報は初耳だった。まだ警察が掴んでいない情報だと知っていて矢野は聞いているのだ。

「どこの店?」
『教える代わりに今度デートしよ』

 またか。これもいつものパターンだ。何かにつけて矢野は真紀をデートに誘う。
大抵は真紀がうまくあしらってデートに繋がることは稀。しかしこれまでにも何度か休日に二人で会ってはいる。

「しばらく休み無しなの。それに休みがあっても矢野くんとは会いません」
『じゃあ通り魔の情報もいらないね?』

 そうそういつも餌には釣られない。にこにこ微笑む矢野の艶のいい頬を一発殴ってやりたい気分だった。

男性なのに矢野の肌は艶があってきめ細かい。飲酒、喫煙、夜更かし、不健康なことばかりしているくせに信じられない。

 真紀は額に手を当てた。調子が狂うのはさっきから身体の様子がおかしいからだろう。

『真紀ちゃんどうした? 気分悪い?』
「平気だから……」

心配そうにこちらを見ている矢野の顔が歪んで見える。身体がとても熱い。

『……ほんと、強がりだよな』

 矢野の声が耳元で聞こえた。どうして彼の声がこんなに近くで聞こえるのかわからない。

 身体が熱くて呼吸が苦しい。歪んでいく景色の中でやっぱり矢野の顔も歪んで見えた。

ぐるぐる、ぐるぐる、世界が回る。蝉の鳴き声ももう聴こえない。
真紀の視界は暗闇に閉ざされた。
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