早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 目を開けた彼女は深く息を吐いた。夢を見ていた。香道と出会ってから彼が死ぬまでの……香道と過ごした日々を懐古する夢だった。
もう戻らないあの頃の夢。

「ここ……どこ?」

 ぼやける視界に見慣れない天井が映る。頭を動かすとゴロッと何かが転がる音がした。頭の下から首にかけてひんやりと冷たい。これは氷枕だ。

(私……あれからどうしたんだっけ?)

母親との電話を終えて道端で矢野と話をしている最中に目眩に襲われた。視界が真っ暗になり、それからの記憶はない。

 上半身を起こしてみるとまだ頭がくらくらした。身体には黒い薄手の掛け布団がかけられている。
寝ているベッドも、今いるこの部屋も真紀の自宅ではない。じゃあ、誰の?

『お、真紀ちゃん起きた?』

 広々とした部屋の中央に置かれたソファーに矢野が座っていた。

「矢野くん? どうして……」
『倒れたの覚えてる?』
「……ああ、あの時……」
『いきなり意識失ってびっくりしたよ。気分どう?』

矢野はベッドに手をつき、片方の手で真紀の額に触れた。矢野の顔が近付いてきて、真紀は彼から目をそらした。

「頭はまだくらっとするけど、平気」
『そっか。……うん、さっきよりは熱くなくなったな』

真紀の額に触れていた手が離れる。ベッドの端に腰かけた矢野の重みが、彼の存在を主張していた。

「ここって……」
『俺の家。病院連れて行こうか迷ったんだ。でも大袈裟にすると真紀ちゃん嫌がるかと思って』

 矢野の部屋は十二畳程度のワンルームだった。真紀が寝ているベッドは黒い枕に黒い掛け布団、部屋の中央には大きな黒いソファーがあり、その上に赤いクッションが見えた。

黒を基調とした男性的でスタイリッシュな部屋だ。

(意外といい部屋住んでるじゃない。情報屋ってそんなに儲かるの?)

向こうには対面式のシステムキッチンがある。一般的な大学生や社会人の男性の独り暮らしの部屋よりも部屋のランクは高い。家賃もそれなりの値段がしそうだ。

『上野さんには連絡しておいた。真紀ちゃん、徹夜で寝てないんだって? 寝不足とこの暑さで夏バテしたのかもね』
「ごめん……。ありがとう」
『いえいえ。連続通り魔の情報も上野さんに話したよ。これで真紀ちゃんとのデートの約束はできなくなったけど、真紀ちゃんが俺のベッドで寝てるっていう素晴らしい光景を見れたから俺にとってはラッキーだな』

 矢野はふっと息を漏らして笑い、ベッドを降りた。歯の浮くセリフを平気で言えるのが矢野だ。急に恥ずかしくなり、真紀はそっぽを向いた。

「……バカ」
『おお、調子戻ってきたねぇ。何か飲む? 病み上がりだし白湯がいいかな』
「コーヒー。矢野くんが作ったコーヒーが飲みたい」

 即座に答えた真紀の前で矢野は目を丸くしている。コーヒーを所望したことが彼には意外だったようだ。
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