早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
矢野はコーヒーを淹れるのが巧い。いい豆を使っているおかげでもあるのだろうが、早河の事務所で矢野の淹れたコーヒーを何度か飲んだ真紀は彼の淹れるコーヒーが好きだった。
『俺のコーヒーは真紀ちゃんに好かれてるみたいだな。オッケー。作るから待ってて。身体、まだ辛いなら寝てていいよ』
矢野は対面式のキッチンに行ってしまった。まだ頭がぐらっと揺れる感覚があり、お言葉に甘えて再び矢野のベッドに横になった。
矢野の匂いがする。でも不快ではない。むしろこの匂いを心地いいと感じて戸惑った。
(彼氏じゃない男のベッドに寝そべって安心してるって……私、何やってるんだろ)
キッチンから響くコーヒーを作る音を聴きながら彼女は視線を動かしてベッドから彼の部屋を見渡した。
(矢野くんのことだから、女の存在がわかるものとか、もっと何か置いてあるかと思った)
矢野の部屋には女の影が見えるような物は置かれていない。真紀がいるからそういった物をどこかに仕舞ったとも考えられるが、矢野の部屋に女の存在がなかったことに安堵していた。
……それはどうして?
部屋の観察をしていた真紀は対面式キッチンにいる矢野と目が合った。
『コーヒーもうすぐできるよ。……ん? どうした? そんなにジーっと見られるとさすがの矢野くんも照れるんだけど』
「別に……矢野くんを見てたんじゃないからっ」
慌てて布団で顔を覆う真紀が愛らしい。ベッドに近付いた矢野は布団から見える真紀の髪に触れる。黒くて艶のあるサラサラな髪だ。
髪に触れるだけ、触れるのはここまで。
『……コーヒー持ってくるね』
真紀に一声かけて矢野はベッドを離れた。矢野の足音が遠ざかると真紀は布団から顔を出して髪に触れた。
たった今まで矢野に撫でられていたくすぐったい感覚がまだ髪に残っている。
(矢野くんはどうして私なの?)
交際を申し込まれてはいなくても、矢野が自分に向ける好意は充分過ぎるほど伝わっている。彼に与えられる愛情に不快感を覚えたこともない。
だけど素直に矢野を受け入れられない真紀がいた。それはまだ香道秋彦に未練を残すもうひとりの真紀。
香道秋彦の幻影に囚われ続けるもうひとりの真紀が矢野を拒んでいた。
(もう香道先輩には会えないのに。それに香道先輩が生きていたって、今頃は桐原さんと結婚して、子どもが生まれて、子煩悩なお父さんをやってる香道先輩の家族話を私が笑って聞くってオチなんだよ)
最初から実らない片想い。来月には29歳になる女がいつまでも死んだ男に片想いして強がって、馬鹿みたいだ。
『俺のコーヒーは真紀ちゃんに好かれてるみたいだな。オッケー。作るから待ってて。身体、まだ辛いなら寝てていいよ』
矢野は対面式のキッチンに行ってしまった。まだ頭がぐらっと揺れる感覚があり、お言葉に甘えて再び矢野のベッドに横になった。
矢野の匂いがする。でも不快ではない。むしろこの匂いを心地いいと感じて戸惑った。
(彼氏じゃない男のベッドに寝そべって安心してるって……私、何やってるんだろ)
キッチンから響くコーヒーを作る音を聴きながら彼女は視線を動かしてベッドから彼の部屋を見渡した。
(矢野くんのことだから、女の存在がわかるものとか、もっと何か置いてあるかと思った)
矢野の部屋には女の影が見えるような物は置かれていない。真紀がいるからそういった物をどこかに仕舞ったとも考えられるが、矢野の部屋に女の存在がなかったことに安堵していた。
……それはどうして?
部屋の観察をしていた真紀は対面式キッチンにいる矢野と目が合った。
『コーヒーもうすぐできるよ。……ん? どうした? そんなにジーっと見られるとさすがの矢野くんも照れるんだけど』
「別に……矢野くんを見てたんじゃないからっ」
慌てて布団で顔を覆う真紀が愛らしい。ベッドに近付いた矢野は布団から見える真紀の髪に触れる。黒くて艶のあるサラサラな髪だ。
髪に触れるだけ、触れるのはここまで。
『……コーヒー持ってくるね』
真紀に一声かけて矢野はベッドを離れた。矢野の足音が遠ざかると真紀は布団から顔を出して髪に触れた。
たった今まで矢野に撫でられていたくすぐったい感覚がまだ髪に残っている。
(矢野くんはどうして私なの?)
交際を申し込まれてはいなくても、矢野が自分に向ける好意は充分過ぎるほど伝わっている。彼に与えられる愛情に不快感を覚えたこともない。
だけど素直に矢野を受け入れられない真紀がいた。それはまだ香道秋彦に未練を残すもうひとりの真紀。
香道秋彦の幻影に囚われ続けるもうひとりの真紀が矢野を拒んでいた。
(もう香道先輩には会えないのに。それに香道先輩が生きていたって、今頃は桐原さんと結婚して、子どもが生まれて、子煩悩なお父さんをやってる香道先輩の家族話を私が笑って聞くってオチなんだよ)
最初から実らない片想い。来月には29歳になる女がいつまでも死んだ男に片想いして強がって、馬鹿みたいだ。