早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
真紀も矢野を追って広い玄関に出た。こんな高級マンションを訪れるのは親友で女優の本庄玲夏の自宅に遊びに行く時か、セレブな人間が事件関係者になった時くらいだ。
しがない公務員の自分にはこんなマンションは一生縁がない。
「ねぇ、倒れた私をここまで運んだのって矢野くん?」
『そりゃあ俺しかいないしね。ここまで車で運んで、おんぶして、真紀ちゃんの寝顔を独り占めしながらベッドに運びましたよ』
玄関先で振り返った矢野が真紀の耳元で囁いた。
『寝込みは襲ってないから安心して。ムラムラはしてヤバいなぁって思ったけど、矢野くんの理性が欲望に勝ちました。偉いだろ?』
「……変態っ!」
何もされていないとは思っても、何かをしようとしたニュアンスを残されて真紀は顔を真っ赤にした。赤面する真紀を見て矢野は陽気に笑っている。
真剣な顔で口説いてきたり、おちゃらけて笑ってからかったり、やはり掴めない男だ。
矢野の車に乗るのはこれで何度目だろうと真紀は考えた。正確に数えたことはないが少なくはない。
高層マンションに住んでいる彼の車はごく一般的でありふれた乗用車だ。影で暗躍して情報を集める情報屋を名乗る彼は車種が限られる目立つ車には乗らないのかもしれない。
『冷房より外の風の方が身体にいいだろうね』
走り出してから矢野は車内の冷房のスイッチを切って代わりに窓を数センチ開けた。
都会の空気は田舎に比べれば清々しいとは言えない。それでも夏の夜が迫るこの時間帯の風は心地いい。
「警部に何て言って連絡したの?」
『真紀ちゃんが倒れたからしばらくお預かりしまーすって』
ハンドルを握る矢野の前髪を運転席側の窓から吹く風が揺らしている。
「お預かりって……。はぁ、警部に変な誤解されそう」
『大丈夫じゃない? 上野さんも“おお、宜しく頼むなー”って言ってたよ。俺も上野さんとは知らない仲じゃないしさ』
「前から不思議だったんだけど、矢野くんはいつから上野警部と知り合いなの?」
真紀が上野の部下として警視庁に配属された時にはすでに、矢野は早河や上野と交流があった。特に当時は刑事だった早河とは仕事仲間にしては親しすぎる印象を受けた。
『真紀ちゃんに話したことなかったっけ。上野さんとは早河さん繋がり。早河さんが警視庁に異動してからの付き合いだよ。……香道さんともよく仕事させてもらってた』
香道の名を出した時に矢野は横目で真紀を一瞥した。一瞬だけ彼女と目が合う。
「……そうだったの」
それだけ言って、真紀は助手席の窓に顔を向けた。
『香道さんの命日、もうすぐだな』
矢野が呟く。フロントガラスの向こうには太陽と月が交わる紫色の空が広がっていた。
夏の短い夜のプロローグだ。
「……うん」
『まだ好き?』
誰を、とは彼は聞かなかった。真紀にはそれだけで通じると確信していた。予想通り、彼女は黙ってしまった。
『変なこと聞いてごめん』
「いいよ。気にしてない」
気まずさの残る車内。二人は夏の夜風に吹かれてこの重たい空気をやり過ごした。
しがない公務員の自分にはこんなマンションは一生縁がない。
「ねぇ、倒れた私をここまで運んだのって矢野くん?」
『そりゃあ俺しかいないしね。ここまで車で運んで、おんぶして、真紀ちゃんの寝顔を独り占めしながらベッドに運びましたよ』
玄関先で振り返った矢野が真紀の耳元で囁いた。
『寝込みは襲ってないから安心して。ムラムラはしてヤバいなぁって思ったけど、矢野くんの理性が欲望に勝ちました。偉いだろ?』
「……変態っ!」
何もされていないとは思っても、何かをしようとしたニュアンスを残されて真紀は顔を真っ赤にした。赤面する真紀を見て矢野は陽気に笑っている。
真剣な顔で口説いてきたり、おちゃらけて笑ってからかったり、やはり掴めない男だ。
矢野の車に乗るのはこれで何度目だろうと真紀は考えた。正確に数えたことはないが少なくはない。
高層マンションに住んでいる彼の車はごく一般的でありふれた乗用車だ。影で暗躍して情報を集める情報屋を名乗る彼は車種が限られる目立つ車には乗らないのかもしれない。
『冷房より外の風の方が身体にいいだろうね』
走り出してから矢野は車内の冷房のスイッチを切って代わりに窓を数センチ開けた。
都会の空気は田舎に比べれば清々しいとは言えない。それでも夏の夜が迫るこの時間帯の風は心地いい。
「警部に何て言って連絡したの?」
『真紀ちゃんが倒れたからしばらくお預かりしまーすって』
ハンドルを握る矢野の前髪を運転席側の窓から吹く風が揺らしている。
「お預かりって……。はぁ、警部に変な誤解されそう」
『大丈夫じゃない? 上野さんも“おお、宜しく頼むなー”って言ってたよ。俺も上野さんとは知らない仲じゃないしさ』
「前から不思議だったんだけど、矢野くんはいつから上野警部と知り合いなの?」
真紀が上野の部下として警視庁に配属された時にはすでに、矢野は早河や上野と交流があった。特に当時は刑事だった早河とは仕事仲間にしては親しすぎる印象を受けた。
『真紀ちゃんに話したことなかったっけ。上野さんとは早河さん繋がり。早河さんが警視庁に異動してからの付き合いだよ。……香道さんともよく仕事させてもらってた』
香道の名を出した時に矢野は横目で真紀を一瞥した。一瞬だけ彼女と目が合う。
「……そうだったの」
それだけ言って、真紀は助手席の窓に顔を向けた。
『香道さんの命日、もうすぐだな』
矢野が呟く。フロントガラスの向こうには太陽と月が交わる紫色の空が広がっていた。
夏の短い夜のプロローグだ。
「……うん」
『まだ好き?』
誰を、とは彼は聞かなかった。真紀にはそれだけで通じると確信していた。予想通り、彼女は黙ってしまった。
『変なこと聞いてごめん』
「いいよ。気にしてない」
気まずさの残る車内。二人は夏の夜風に吹かれてこの重たい空気をやり過ごした。