早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 有紗が大人に近付いていることはわかっている。だからわざと突き放すんだ。

『花火見なくていいのか? 終わっちまうぞ』
「今はこうしていたい」

有紗は早河の胸元に顔を寄せて目を閉じた。

(有紗もミレイも……まぁ、なぎさもそうか。面倒見てきた女に何故かなつかれてるよなぁ)

 有紗の他にも、銀座のクラブでホステスをしているミレイは彼女が高校生の時にまだ刑事だった早河が補導した。ミレイにも好きだと告白されている。

 なぎさの気持ちはどうか知らないが、出版社を辞めて事務所に押しかけて来た当時のなぎさの様子を見ると嫌われてはいないようだ。第一、嫌いな人間と一緒に仕事させてくれなんて言う物好きはいない。

(野良猫を拾うと拾った相手を主人と思ってなつくのか?)

 有紗がふふっと笑い声を漏らした。

「私ね、早河さんの匂い嗅ぐと落ち着くの。煙草と、爽やかなのにちょっと甘い香水とコーヒーの混ざった匂い」
『オジサンの匂いじゃないのか?』
「違うよぉ。オジサンじゃないよ。この匂い大好き」

 顔を上げた有紗の暗闇に浮かぶ微笑が早河の目には妖艶に映る。今の有紗は少女ではなく完全に女の顔をしていた。

子供みたいに拗ねたかと思えば女の香りを振り撒いて男を惑わす、厄介な野良猫だった。

 花火が終わると哀しいような切ない気持ちになる。花火の余韻を名残惜しく楽しみながら賑わう神社の通りを抜けた。
混雑する人混みではぐれないよう二人は手を繋いでいる。

 大通りに出ようとした時に周囲が祭りの喧騒以外のざわつきを見せた。

「泥棒よ! そいつ捕まえて!」

 女性の叫び声に反応した早河が後ろを振り向いた。キャップを被った男が全速力で走ってくる。その後ろからは叫び声の主と思われる中年女性と中年男性が男を追いかけていた。

『有紗、俺から離れてどこかに隠れてろ』

有紗の手を振りほどいた早河は突進してくる男の前に立ちはだかる。

『退けっ!』

窃盗を働いた男は折り畳みナイフをちらつかせて早河を威嚇する。そんなものは刑事だった早河には通用しない。

『俺が道を譲るのは子供と妊婦とお年寄りだけだ』

 ナイフを持つ男の腕を掴み、刃先をうまく避けてナイフを払い除ける。それから男の腹部に拳を一発。

男はうめき声をあげて地面に崩れた。男が抱えていた女物のバッグと屋台の売上金の入る巾着袋を拾い上げて追いかけてきた中年女性と中年男性に渡した。

「ありがとうございます。お兄さん、格好良かったわぁ」

小太りな中年女性は丸い顔を赤く染めて早河に頭を下げた。中年男性も窃盗犯を撃退した早河を褒め称えている。
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