早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 やはり彼女は“正反対”だ。貴嶋が黒なら美月は白、陰と陽、明と暗。

『彼を殺したのは正確には私の部下だが、殺害命令は私が下したよ』
「どうして佐藤さんを殺したの? 佐藤さんはあなたの仲間じゃないの?」
『彼が逮捕されて私達組織の情報が警察に伝わるのを防ぐためさ』
「そんなことで? そんなことで佐藤さんを……」

 暑い夏、騒ぐ海鳥、銃声の音。3年前のあの日の記憶が甦って呼吸が苦しい。

『美月にとってはそんなことかもしれないね。だが私にとってはそんなことでは済まされない。それに彼が生きていたとしても、美月と彼が共に人生を歩む未来は存在しなかった。彼は殺人犯だからね』

握り締めた拳の震えが止まらない。目から溢れるこれは涙? どうして彼女は泣いている?
悔しいの? 悲しいの?

『私が殺さなくても彼は死を選ぼうとしていた。美月と出会わなければ彼は自分で命を絶っていたよ。元々、彼はそのつもりでいた』

 美月の右手が貴嶋の頬に振り下ろされようとしていた。正対する二人を包む静寂。

振り下ろされた美月の右手が貴嶋の頬に辿り着くことはなく、彼女の右手を貴嶋が掴んでいる。

『レディがこんな乱暴なことをしてはいけないよ?』

 彼の声は相変わらず穏やかで優しいが、眼差しは冷たく鋭い。美月は貴嶋の冷たい視線を真っ向から跳ね返している。

面白い女の子だ。貴嶋が心の中で満足げに笑っていると知れば、また美月は激怒するに違いない。

 構えた手を下ろした美月は唇を噛んで貴嶋を睨んでいる。涙が口の中に入って塩辛い味が広がった。
彼女の横では、松田が落ち着かない様子で二人のやりとりを静観していた。

『私も美月に聞きたいことがある』
「……何?」
『美月は私に佐藤瞬の面影を重ねているのではないか? 君は私の中に佐藤瞬を見ている』

 心臓の奥がキリッと痛んだ。3年前から、密かに抱いて隠していたもの。それをこの男には見抜かれていた。

『何も言えないところを見ると私の読みは正解のようだね』

踵を返した貴嶋は無言の美月に顔だけを向けた。

『また会おう。近いうちに、必ず』

 優雅な歩調の足音が遠ざかる。後に残されたのは階下から聴こえる学生達の話し声。その声にここが大学の構内だと美月に思い出させた。

 貴嶋がいたここだけが、別世界のようだった。
< 167 / 171 >

この作品をシェア

pagetop