早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
『じゃ、またサークルの会合で』
「先輩、本当にありがとうございました」

 中庭の小道を行く美月の後ろ姿を見送って、松田は肩を落として踵を返す。
その視線の先では、サークルの後輩の橋本がベンチに座って本を読んでいた。

『いるならいるって言ってくれ』
『一応、ここで静かなる主張はしていたつもりでしたよ。先輩が浅丘さんしか見えてないから俺に気付かなかっただけです』

 橋本は苦笑いして、また本に視線を落とす。彼が読んでいるのは3年前に逝去した推理小説家、間宮誠治の遺作だ。

『やっぱり俺は“良い先輩ポジション”なんだろうな』
『無理して“良い先輩ポジション”にいなくてもいいんじゃないですか? あれだと一生、浅丘さんは気付きませんよ』
『気付かれない方がいいんだよ』

橋本の隣に座って松田は溜息をつく。橋本が本の裏表紙の著者近影を眺めて呟いた。

『間宮誠治って殺されたんですよね』
『もう3年くらい前になるか。それって間宮誠治の生前未発表の小説だろ?』
『そうです。本人はシリーズ化を予定していたみたいですね』

 2年前の2007年に発売された間宮誠治の遺作は【混沌の帝王】と名付けられた上下巻完結の作品だ。橋本が手にしているのは下巻だった。

『先輩は読みました?』
『目は通したけど……なんだかな。面白くはあるんだが、作風がガラッと変わったって言うか……』

【混沌の帝王】の原稿は未完で、書きかけの原稿を間宮の死去後に間宮と親交が深い推理小説家の柏木都《かしわぎ みやこ》が完成させた。
この作品は共作として著者欄には間宮誠治と柏木都の二人の作家の名前がある。

『間宮誠治はこれまでマフィアやヤクザものは扱わなかったから、いきなり犯罪組織の話が出てきて驚いた。上巻のラストからの展開は柏木都っぽいしな』
『犯罪組織って言われてもピンと来ませんよね。柏木都は社会派ミステリー作家って言われてるだけあって味付けは上手いですけど、間宮誠治の遺作って言うより、これは完全に柏木都の本になっていますよね』

 混沌の帝王。それが“何”であるか、知らない者は知らない。
知っている者は知っている。それだけのこと。
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