早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 勤務する病院から帰宅した加藤麻衣子はシャワーを浴びるのも後回しにしてベッドに寝そべった。

「疲れた……」

 ワンルームの狭い部屋。どれだけ独り言を言っても返事をしてくれる人はいない。
それが独り暮らしの寂しさでもあり、気楽さでもあった。

 麻衣子の職業は心理カウンセラー。母校の啓徳大学の名前を冠する啓徳大学病院の精神科に勤務している。

最近は犯罪被害者のPTSDのケアにも関わり、今日は母子支援施設を訪問してDV被害に遭った子供達のカウンセリングをしていた。その後は病院に戻ってミーティングや資料集めに追われ、気付けば夜になっていた。

 ふかふかのベッドに包まれると途端に眠気に襲われる。明日は休みだ。もうこのまま寝てしまいたかった。

 どこかで電子音が鳴っている。玄関に放り出したバッグから聞こえた。
狭い部屋の利点は玄関までの距離が短いことだ。面倒だがベッドを降り、這いつくばるように部屋を横切って玄関に繋がる廊下に放ったバッグを掴む。

 携帯電話は麻衣子の手の中で未だに鳴り続けていた。
画面には懐かしく安心する名前が表示されている。幼稚園からの腐れ縁で幼なじみ、さらには初恋の相手でもある木村隼人だ。

「隼人ー?」
{……悪い。寝てたか?}
「ううん。今帰って来たとこ」

 隼人の声の様子が普段と違う。かれこれ20年の付き合いだ。声だけでわかってしまうことがある。
隼人には報告しなければいけないことがあった。

「美月ちゃんのカウンセリング、うちのチームでやることになったよ。私もチームのメンバーに入ってる」
{ああ……そっか。麻衣子の病院だったよな。お前がいてくれるなら安心だよ}
「出来る限りのことはするから。話は……美月ちゃんのこと?」

 美月が通う大学で起きた殺人事件のことは、カウンセリングを行う上で警察関係者から聞いてそれなりの経緯は知っている。麻衣子の上司の高山政行が指揮するPTSDのカウンセリングチームが、美月のカウンセリングを担当することも正式に決まった。

{……麻衣子の友達に香道なぎさって奴いるか?}
「なぎさ? うん、高校の友達」
{高校……ってなると聖蘭学園か。その友達が探偵の助手やってるって聞いたんだけど}
「前は出版社で働いていたの。色々あって今は探偵事務所で働いてるんだよ。ねぇ、なんでなぎさのこと……」

 幼なじみだとしても高校は違う。これまで互いの交遊関係には踏み込まないスタンスをとってきた隼人からなぎさのことを聞かれたのは初めてだ。

{香道なぎさが助手をしてる探偵に、美月のことを相談したいんだ。今のままじゃ俺は美月のために何もしてやれない}
「……美月ちゃんと何かあった?」
{美月は……今でも佐藤が好きなんだよ……}

 吐き出した隼人の弱音。彼の口からとつとつと語られる美月との間に生まれた溝、それらを聞きながら麻衣子は本棚から出したアルバムのページをめくる。
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