早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 それでも彼女は僕の前から動かなかった。

「私は先生が好き。先生と恋愛したいの。3ヶ月だけ。3ヶ月だけでいいから私と付き合ってください」
『3ヶ月だけ?』
「うん。思い出作りに……ううん。やっぱりいい。ごめんなさい。さようなら」

 彼女はひとりで自己完結して足早に教室を去った。残された僕は過ぎ去った嵐の威力にすっかり疲れてしまい、しばらく茫然と立ち尽くす。

 突然のキスと告白、3ヶ月だけ、思い出作り……わずか数分足らずに起きた出来事に少なからず戸惑いを感じていた。

桜井杏奈……その存在に戸惑っていた。

 教室の鍵を施錠して廊下に出ると杏奈が廊下の壁にもたれて待っていた。やはり……と言うべきか、彼女のその行動をどこかで期待していたのかもしれない。

『帰ったんじゃなかったのか』
「帰りたくないって言ったでしょ?」
『ここに泊まる気?』
「それもいいかも!」

ニコニコと答えた杏奈の唇に自然と目がいく。あの赤い唇がついさっき柔らかに突撃してきたんだ。

『幽霊出るかもよ。ここも一応学校だからね』
「えー。それは嫌だなぁ。先生、朝まで一緒にいよぉ?」

 さっきからこの子のペースにハマっている。冗談でも男に言うセリフではない。杏奈にとっては冗談ではないのかもしれないが。

『鍵返してくるから玄関で待ってなさい』
「はーい」

 嬉しそうに階段を降りる杏奈の足音を聞きながら教務室に戻った。まだ数名の講師が残っていて、英語担当の二十代の女性講師からこれから飲みに行かないかと誘われたが、丁重に断りを入れた。

少し気になって教務室を出る前に塾生の名簿を開いて杏奈の項目を確認した。杏奈は私立高校の2年生、父親は大企業の会社経営、母親はファッションデザイナー、華々しい家系だ。

 僕と恋愛したいと言うのもきっと華やかなお嬢様の気まぐれだろう。ただの気まぐれ。
きっと、そうだ。

 彼女が待っていない方と待っている方、どちらの割合が高いか計算してみた。お嬢様の気まぐれならもう待ってはいないだろう。
しかし僕の言った通りに、杏奈は玄関で待っていた。主人の命令を忠実に聞く忠犬ハチ公みたいだ。

「先生、お腹空いた! 何か食べに行こっ」
『いいけど、ファミレスだよ』
「いいよー」

きっと毎日良いものを食べているであろうお嬢様はファミレスの味に満足できるのか?

 杏奈は僕の腕に自分の腕を絡ませた。発育途中の胸元をこすりつけてくるのはわざとだろう。何を考えているのかよくわからない女の子だ。

同じ塾の講師や生徒、大学の仲間など知り合いに会わないことを願って駅前のファミレスまで歩く。杏奈は僕のそんな些細でつまらない気苦労も知らずに、鼻唄なんか歌って上機嫌だ。

『どうして家に帰りたくないの?』

今さらこんなことを聞いてみたのも話題がないから。

「誰にでも家に帰りたくない時はあるって言ったのは先生だよ」
『それはそうだけど……』

 そうは言っても、華やかな家庭のお嬢様が家に帰りたくない事情は気にかかる。ファミレスは混雑していたが、なんとか二人分の席を確保できた。

「ここのデミグラスオムライスが大好き」

 杏奈は運ばれてきたデミグラスソースたっぷりのオムライスに目を輝かせている。良いとこのお嬢さんがファミレスの800円のオムライスを好むことに違和感を覚えた。
お嬢様ならもっと高級なレストランの味を好みそうなものだ。
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