早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 僕と杏奈の不思議な3ヶ月限定恋愛が始まった。3ヶ月……正確には間もなく迎える6月から8月31日までの約束。
9月になれば僕たちは塾講師と生徒の関係に戻る。杏奈がそう決めたのだ。僕に異論はない。

 付き合うと言っても、僕も杏奈も学生の身だ。昼間は大学と高校、互いに学校に通う僕らが会えるのは予備校か休日。

平日は予備校の授業終わりに二人で駅前のファミレスで食事をし、駅の改札口で別れる。たまに休日に会って杏奈が見たいラブストーリーの映画を観たり、嫌がる僕を杏奈が無理やり遊園地に連れて行ったり、何かを決める主導権はいつも杏奈にあった。

 梅雨が始まった6月の最初の1ヶ月はそんな風に過ぎていった。どうして3ヶ月なのか、付き合い始めても彼女は教えてくれない。

 初めて杏奈が僕の独り暮らし先のアパートを訪れたのは7月上旬の雨の土曜日だった。大学から近い築20年の学生専用アパートは一階の端の僕の部屋の隣は空き部屋だが、他はすべて学生の入居者で埋まっている。

「うわぁー! 男の部屋って感じ! ……うん。先生の匂いがする」
『ははっ。どんな匂いだよ』

 8畳のワンルームの部屋にはベッドとテレビ、パソコンが乗るデスク、あとは本棚しかない。
ここの二階に住む同級生の部屋にはギターがあったりアイドルの水着ポスターが貼ってあったり漫画が山積みにされていたりと、もっとごちゃごちゃとしている。

杏奈はベッドに腰掛けて僕が渡した麦茶のグラスを一気に空にした。彼女の白い喉が艶かしく動く。

「今日はここに泊まるからね!」
『泊まるって……ああ、だからその荷物……』

 杏奈のカバンがいつもより大きい理由がわかった。最初から僕の家に泊まる気でいたらしい。

「お泊まりセット。準備万端なの」
『泊まるのはいいけど親には泊まること言ってあるんだろうね?』
「言ってないよ」

杏奈は麦茶のおかわりをグラスに注ぐ。澄ました顔をしている彼女の瞳はファミレスで初めて見た時と同じ冷たい瞳だった。

『ダメだよ。親御さんが心配するだろ?』
「大丈夫。あの人達は私のこと心配しないから」

 杏奈と交際を始めてからのこの1ヶ月、ずっと気になっていたことがある。杏奈は家族の話をしない。
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