異世界シンママ ~未婚のギャル母に堅物眼鏡は翻弄される~
17.男の約束
翌朝ユンカースは目覚めると、喉の渇きを覚えて階下へ降りていった。久々に量を飲んだせいだ。
まだ明け方で誰も起きていないだろう。住人用の洗面所に入ろうとすると、中で誰かが動く気配がしてユンカースははっと手を止めた。ドアノブに手を掛けたまま、耳を澄ませる。
(ミネルヴァさんならもっと大きい音を立てる。レーゲンさんがこの時間に起きることはない。……泥棒か?)
そういえば、近隣の街で盗みが頻発していると警備兵がアステール王に報告していた。ユンカースは辺りを見回して廊下にあったほうきを手に取ると、勢いよく扉を開ける。
「――誰だ!」
「わぁっ!! ……あ、ユンユン……?」
「カイト……!?」
洗面所には、下半身裸で泣きべそをかいたカイトが立ち尽くしていた。
「な、何してるんですか……。まさか何かありました!?」
「…………」
カイトは手にした大きな白い布を握りしめるばかりで何も言わない。その体に怪我などがないのを見て取り、ユンカースは小さく息を吐いた。少なくとも事件性はなさそうだ。
赤い顔で泣きべそ顔のカイト、脱ぎ捨てられた下衣、握りしめた白い布――というかシーツ。それらから導き出される答えにユンカースはため息をついた。
「寝小便ですか……」
「っ! ……か、かーちゃんには言わないで!」
「怒られるんですか?」
「おこんないけど……でも……。……はずかしい……」
「…………」
まあ有那はこういうことでは怒らないと思っていたが、海渡の言葉にユンカースは内心で同意した。同じ男として、失敗を恥ずかしく思うその気持ちは分からなくもない。
「で、一人で洗おうとしたんですか……」
「うん。でもお水が出なくて……」
海渡の後ろにある手押しポンプを見てユンカースはその経緯を悟った。幼児の力で水を汲み上げるのは無理だろう。それに、下着だけならともかくシーツを一人で洗うのはどう考えても不可能だ。
「アリナさんが起きてくる前に証拠を隠滅しようと思ったんですか?」
「しょうこ……? いんめつってなに?」
「なかったことにする、という意味です」
「う……。だって、かーちゃん忙しいのに……。ね、ねえ! かーちゃんには言わないで!」
「言いませんけど……普通にバレると思いますよ。ベッドから急にシーツがなくなってたら変でしょう」
「う……。ううーっ」
海渡の目にまた涙が滲んだ。こんな小さな子供にも優しい言葉をかけてやれない自分の不甲斐なさに辟易しながら、ユンカースは海渡の足の間でプルプル震える小さなブツを指し示す。
「……とりあえずそれ、しまいませんか。風邪引きますよ」
近くにあった洗いざらしの布巾を掴むと、海渡の腰に巻き付けてやった。ミネルヴァに叱られそうだが、あとで洗うから許してほしい。
ユンカースは腕まくりするとたらいを引っ張り出し、そこに水を汲んでいく。
「ユンユン……?」
「洗いますよ。アリナさんの手を煩わせたくないんでしょう?」
「う……うん。ありがとう……」
まずは小物の衣類から片付けようと、たらいに濡れた服をつっこみ、水洗いする。それから水換えするとユンカースはその場にあった洗剤を適当にブチ込んだ。
「せんざい……使いすぎじゃない?」
「適量が分からないんですよ。まあ、しっかりすすげば大丈夫でしょう。……はいできた。次はシーツを下さい」
「うん。……オレも手伝う!」
「いえ、別に――。……じゃあ、お願いします」
一度断りかけて、思い直した。ユンカースがすべてやってしまったら、海渡の中にはまた「人の手を煩わせてしまった」という悔いが残るだろうから。
あまり戦力にはならないが、並んで座ると大きな地図を描いているシミのあたりを小さな手で洗わせる。まだ涙が残るその横顔を見てユンカースは口を開いた。
「こんなことで男が泣くものじゃないですよ。強くいなければ」
「……? かーちゃんは男の子が泣いてもいいって言ってたよ? 男の子が泣いても、女の子が強くてもいいんだって。それをおかしいっていう奴がいたら、かーちゃんが叱ってやるって」
「……っ」
諭したつもりが逆に言い返され、ユンカースは目を見開いた。海渡の言葉が頭に染み渡り、遠い記憶を呼び覚ます。
『ユンカース! 男の子なのにメソメソ泣かないの! ああもう、こっちまでイライラする!』
「…………」
泣くことすら許されなかった苦い記憶を脳裏から追い出す。……まったく、本当に嫌な思い出しか残してくれない親だった。
ユンカースは苦笑を浮かべると海渡の顔を見下ろした。
「君のお母さんは……素敵な人ですね」
「! ……うん! かーちゃんは世界一可愛くて、宇宙一優しい!」
「そうですか」
有那とよく似たキラキラした目で言われ、その子供らしい表情にユンカースは知らず微笑を浮かべていた。シーツを洗い終えて手を拭くと、海渡の短い髪をくしゃりと撫でる。
初めてこの少年を、有那の息子だからではなく、よく顔を合わせる隣人としてでもなく――ただの子供として、可愛いと思った。
「ユンユン?」
「僕の考えですが……こういうことが起こったときは、下手に隠すのではなく正直に言ったほうがいいと思いますよ。とうせバレるんですから」
「う……うん。分かった、オレ、かーちゃんにちゃんと言う。あの、でも……」
「……?」
「オレが泣いてたことは、言わないで……。かーちゃん、心配するから……」
ボソボソと恥ずかしそうに告げられた言葉にユンカースは目を瞬くと、もう一度海渡の頭を撫でた。
「言いませんよ。僕に何もいいことないですしね」
「じゃっ、じゃあ……!」
ん、と海渡が拳を突き出してきてユンカースは首を傾げた。ねえ、と拳を揺らして促され、そろそろと自分の拳を海渡の小さなそれに合わせる。
「男のやくそくね……!」
「はあ……。分かりました」
淡々と告げると、満足したように海渡が手を離す。ユンカースは濡れたシーツを持ち上げると海渡を振り返った。
「あとは僕が干しておきますから。君は部屋に帰って――」
「あーっ! カイト、いたー!!」
バタバタと階段を駆け下りる音のあとに、勢いよく扉が開かれた。飛び込んできた有那が、タックルするように海渡を抱きしめる。
「うえっ。かーちゃん、くるし……っ」
「起きたらいきなりいないから、びっくりしたじゃん! んもー、心配させないでよ〜!」
「ご、ごめん。かーちゃん、あの……」
「ん? ……あ、おねしょした? なんだぁ~。それで洗いに来たの?」
「うん。……ごめんなさい」
「やだ、そんなん全然いいし! かーちゃんなんて小学生でもしたことあんだから!」
ケラケラと笑った有那が立ち上がり、今気付いたようにユンカースを見た。ユンカースは少しドキッとして頭を下げる。
「おはようございます」
「おはよー。ユンユンが洗ってくれたの?」
「いえ、僕はなりゆきで手伝っただけで……」
「そっかー。ごめんね、ありがとう」
起き抜けの有那は髪も乱れ、当然ながらすっぴんだった。いつもより少し薄く感じるその顔は出会った当初にも見たことがあるが、今改めて見るとなんというか――可愛らしいと思った。
(……ん? なんだ今の)
己の中に初めて湧いた感情にユンカースが首を傾げる間に、有那はさっさと洗い物をまとめて立ち上がる。
「……あ、僕が干――」
「いーよいーよ、あとはやるって! カイト先いってなー。てかフルチンじゃん! ウケる。早くパンツ履きな」
「うん」
肩を押された海渡が振り返り、小さく拳を突き出した。ユンカースも軽く拳を掲げると海渡は小さく笑って出ていく。
洗面所に残った有那がユンカースを振り返った。
「ありがと、ユンユン。……ユンユンがほとんど洗ってくれたんだよね。カイトだけじゃ無理だもんね」
「それは……。……まあ」
言い訳が思い付かず正直にうなずくと、有那は肩をすくめてにこりと笑った。
「カイトがやったことにしてくれたんだね。……やっぱ優しいね、ユンユン。そういうとこ、すごく素敵だと思うよ」
「……っ」
なんのてらいもなく告げられた言葉にユンカースの頬が赤くなる。それに気付かず、有那は「じゃーね」と軽く告げて洗面所を出ていった。
一人残ったユンカースは口を押さえ、胸にだんだんと降り積もる不可解な感情を持て余した。