異世界シンママ ~未婚のギャル母に堅物眼鏡は翻弄される~
21.忘れたい過去
食堂を飛び出した有那は階段を上りかけて足を止めた。こんな泣き顔で、乱れた心で、もし海渡が起きていたら心配させてしまう。
向きを変えると有那はアパートの横に回り込み、外からは死角の中庭に足を踏み入れた。ベンチの上で膝を抱えて座る。
――ショックだった。ああいった言葉を浴びせられたことはそれこそ元の世界でも何度かあったが、思ってもみなかった、少なからず親愛の情を抱いている相手に言われたのがショックだった。
酔っているとはいえ口に出たということは、心のどこかで思っていたということだ。未婚の身で、どこの誰とも知れぬ男の子供をいい加減な気持ちで身ごもった――そう思われていたのか。
「ブッころだ……。……ムカつく」
腹立たしい気持ちと、それ以上に悲しい気持ちで膝を抱えるとガサリと茂みが揺れた。顔を上げると、悲愴な顔をしたユンカースが立ち尽くしていた。
「……なんでびしょ濡れなの。イミフなんだけど」
「これは……水を浴びて……」
ユンカースはなぜか頭から水をかぶっていた。ろくに拭いてもいないのだろう。まだ髪先から水滴が伝っていて、有那は思わずぽかんと見上げた。そんな有那にユンカースが深く頭を下げる。
「あの……すみませんでした。酔っていたとはいえ――いや、状況がどうであろうとあんな侮辱を……なんて馬鹿なことを――! 本当に、すみませんでした!」
「あ……うん。とりあえず、頭拭こうか。……座って」
ポンポンとベンチの隣を示すと、ユンカースが悄然と腰掛ける。有那はポケットに入りっぱなしだった布巾を取り出すとユンカースの短い髪をワシャワシャと拭いた。
「よーしよしよしよし」
「なんですかそれ……。犬じゃないんですけど」
大人しく有那に拭かれるユンカースは、叱られた犬のようだった。手が離れてもうつむいたままの彼に有那はふぅと息を吐く。
「カイトの父親ね――」
「…! ま、待ってください。話さなくていいです。無理に話させようとかそんな気はもう――」
ユンカースがはっと顔を上げ、手を上げて制止した。有那から距離を取った彼のその手を有那はそっと下げさせる。
「いいよ。気になってるって知ってんのに言わないのもなんかモヤるし。あと単純に誤解されてんのがムカつく」
「…………」
ユンカースがバツが悪そうにうつむく。有那は星のない空を見上げて小さく息を吐いた。
「……あたし、高校出てから適当にフリーターしてさ、そのとき一緒だったバイトの大学生やそのサークル仲間とつるんで遊んでたんだよね。テニサーだったかな……今思えばどう考えてもヤリモクみたいな奴ら」
「…………」
「みんなで馬鹿やって、その時だけは結構楽しかった。……その中で、一人の男とちょっとイイ感じになって、飲みに行ったの。つってもあたし当時飲み始めたばっかだから、大したもん飲めないんだけど」
有那は言葉を切ると隣のユンカースを見た。まだ髪の湿っている彼は異世界の言葉を確認しながら、真剣な顔で有那の話を聞いている。
「それでその男性と、合意で……?」
「……だったらまだマシだったんだけどね。飲んでて、急に意識がなくなって――気付いたらあたし、そいつと裸で寝てた。全然覚えてないの……そんな酔うような量なんて飲んでないはずなのに」
「え――」
「たぶん……クスリ盛られた。いくら酒飲んでたって、まったく覚えてないわけないじゃん? あたしきっと……それ目的で誘われた」
手を組み、有那は重く息を吐き出した。
あの朝のことを振り返ると、いまだにはらわたが煮えくり返る。見覚えのない部屋、身体中にこびりついた行為の跡、こちらを見下ろして嘲笑した、あの男の言葉――。
「なん…ですかそれ……。犯罪じゃないですか……!」
怒りに満ちたユンカースの声に、有那は顔を上げた。こちらを見つめる強い眼差しにふっと心が溶ける。
「そうだね……。でも本当に何も思い出せなくて……もちろんそいつにはブチギレたけど、『お前から誘ってきたんだ、お前だって悦んでただろ』って言われて何も言えなかった。誘われて行ったのも酒を飲んだのも、たしかにあたしだから……」
「そんな……」
「さすがにあたしもショックで……そいつらとは縁切った。それで、早く忘れようって体いじめるみたいに昼も夜も働いて――だいぶ経ってから気付いたの。そういえば、生理来てなくない?って」
「……っ」
「ムカついて爆食いしてたから太ったと思ってて。……ほとんどつわりない人がいるなんて知らなかった。病院行ったら、もう中絶できる週数過ぎてて――そのときようやく気付いたけど、もう胎動も始まってた」
そのときの驚きと動揺を思い返すように腹に手を当てると、ユンカースが重く黙る。
「堕ろそうと……考えてたんですか」
「そうだよ。お金も父親もないのに産まれてくるなんて可哀想じゃん。無責任だし。まして、好きでもない男の子供なんて……絶対、愛せないと思った」
「それは――」
「あたし馬鹿だから、生でヤったら妊娠するかもとか、緊急避妊薬とか、全然考えもしなかったの。たった一回だし、自分は大丈夫だろうって。薬を知ってたところで、高くて買えなかったけど……。こんな大事なこと、なんで学校で教えてくれないんだろう」
絶望と焦りと恐怖と。得体のしれないものを宿してしまった恐ろしさに当時の有那は震えた。
「すごく嫌だったけど、相手にもう一度連絡取ったらね。……俺の子かどうか分からないだろ、だって。ふざけんなよ、クソ野郎。アソコ切り落としてやろうかと思った」
指でハサミを作って苦く笑うと、ユンカースは気まずくうつむいた。
「ご両親は……頼れなかったんですか?」
「うちの親は、ユンユンちと逆で超放任――ていうと聞こえがいいけど、無関心なの。なんで産んだんだって言いたくなるぐらい、知らんぷりで。……あたし、小さい頃から寂しくて――それもあって、あんなしょーもない奴らとつるんでたのかも」
「じゃあ、それでシャチョーさんに?」
「うん……。バイトもクビになってお先真っ暗で、『あーもう死んじゃおっかなー』ってフラフラ橋の上に立ってたら、急におっさんに引っ張られて。トラック停めて後ろ大渋滞してるのに、ヤバいよね」
いかついおっさんに突然トラックの助手席に乗せられて、拉致されるのかと思った。死にたくない、ととっさに思ったときの驚きを覚えている。それでも生きていたいのかと。
「それからは、前も話したけど生活が落ち着いて。育てられないならって養子縁組の話とかも聞いたんだけど、だんだんお腹が大きくなって、胎動も激しくなってきたら可愛いって思うようになって――自分で育てることにしたの」
産まれたての赤子を抱くように手を上げると、有那は小さく笑った。
海渡の顔を見たあの瞬間、得体のしれなかった怪物はただただ愛しい存在に変わった。胸に沁み入るような喜びだけがあり、迷いや後悔は消えていた。
「もー産まれたら可愛くて可愛くてさ。父親とかどーでも良くなったね。そうやって手塩にかけて愛でて愛でて愛でまくったのがあの海渡……です」
話を締めくくるように、有那が腕を下ろす。ユンカースは長く沈黙すると、もう一度有那に向き合った。