エリート海上自衛官の最上愛
 はじめは気のせいだと思っていたが、回を重ねるごとに、セクハラめいたスキンシップは増えていった。

 決定打になったのは、家まで送ると言われて断りきれず玄関までついてきたチーフに、部屋に上がり込まれそうになったことだ。

『付き合ってるんだから、いいだろう』

 そう囁かれて、芽衣の頭は混乱を極めた。仕事だと言われたから付き合っていたのだ。なにをどう解釈したらそうなるのだろう。

 パニックになりながらも彼の思い込みを否定して、そういうことならこれ以上の個人的なやり取りはしないときっぱりと言い切ると、彼は激昂し暴言を吐いた。

『んだよ、なら紛らわしいことすんな! ぶす』

 さいわいにしてそれ以上のことはなく彼は帰っていきことなきを得たが、その時の恐怖は今でも胸に焼きついている。

 しかも一連の出来事はそれだけでは済まなかった。

 次の日から芽衣は職場でそれまで任されていたすべての役割から外されたのだ。さらに、芽衣が彼に身体を使って取り入り、サブチーフに昇格しようとしたなどというありもしない噂を流され、皆に白い目で見られる日々がはじまった。

 冷たい視線を向けられながら、皿洗いだけをする日々はそう長くは続けられず、ある朝、足がすくんで厨房に入れなくなったのを最後に、退職を余儀なくされた。

 社宅も引き払い、故郷に帰ることをぼんやりと考えながら、横須賀へやってきたのは、雨が降りしきる冷たい夜のことだった。
 あの夜自分がなにを考えていたのかはっきりとは思い出せない。

 けれど高台に建つうみかぜのビルから漏れる橙色の明かりを目にした瞬間に、あそこへ行きたいと強く思ったことだけははっきりと覚えている。

 そしてなにかに誘われるように青い暖簾をくぐり、マスターにおかえりと迎えられたのだ。

 あの時飲んだ温かい味噌汁の味は生涯忘れることはないと思う。

 ホテルでの出来事があってから、なにを食べても味を感じなくなっていた。

 このままでは大好きな仕事ができなくなると絶望していたけれど、マスターが出してくれた味噌汁を心から美味しいと思えたのだ。同時に、ギリギリまで踏ん張っていた思いが溢れ出て、涙が止まらなくなってしまった。

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