エリート海上自衛官の最上愛
 そもそも晃輝は芽衣が来るまで、うみかぜを"実家"だと思ったことはなかった。生まれてから母が亡くなるまでは、坂の下のマンションで暮らしていたからだ。

 うみかぜで過ごしたのは、中高の数年間のみ。そのあとは防衛大学校に入学し寮生活をするため家を出たのだ。それからは年に数回顔を見せるだけだった。

 父からでさえ『おかえり』と言われてもしっくりこなかったのに、どうしてかあの時だけは自然と"帰ってきた"という気持ちになり、初対面の彼女に対して『ただいま』と答えていた。

 だがその時は、それ以上の気持ちを抱くことはなかった。

 それよりも、なぜ父がいきなり人を雇うことにしたかとその方が気になったからだ。だから次の日もカレーを食べたいということを口実に様子を見にいったのだ。

 そして彼女が手帳を届けに来てくれた際、話を聞いてみることにした。

 そこで彼女の口から語られたホテル勤務時代の出来事には、自分でも驚くほど苦々しい感情を抱き腹が立った。

 彼女の涙に心から同情し、つらい状況から脱却し、うみかぜに来てくれて本当によかったと感じたのだ。

 おそらく父が彼女雇ったのは、詳しい事情は知らないまでも彼女の追い詰められた状況を察したからだろう。うみかぜで働きたいと言う彼女の願いをもし父が断っていたらと思うと、恐怖を覚えるほどだ。

 とはいえ、その時までは晃輝が彼女に抱いていた感情は間違いなく同情だったはず。

 いや父の店の従業員という立場と、込み入った事情を聞いてしまったという状況からすると、部下あるいは後輩に対する気持ちのようなものだったのかもしれない。

 印象が変わったのは、過去の話を終えて涙を拭いた彼女が料理の話をしだした時だ。大きな目を輝かせて、調理の時の楽しさや自分の料理を誰かに食べてもらう時の胸の高鳴りを一生懸命話す姿に、晃輝は自分の胸の奥底の、ある感情が動くのを感じた。

 それはここ数年意識的に封印し、自分は一生抱かない決めていた、淡い色を帯びた新鮮な想いだ。
 
 それから数日、晃輝は珍しくもやもやとした気持ちを抱える日々を過ごした。

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