Honey Trap
私の憎まれ口に密かに苛立ちを募らせていたのか、不機嫌そうな色を含ませた瞳で私を見る男に―――、
「帰るわ」
そう言って立ち上がる。
男の態度に腹が立っただけで、帰らないなんて一言も言っていない。
このまま時を重ねたって、私たちは恋人ではない。
そこにあるのは、ただ、お互いの熱を共有するだけの愚かな関係。
そのままバッグを掴んで肩にかけ、男のわきを擦り抜けて階下に向かう。
履き慣れたローファーに足を突っ込んで後ろを振り返ると、不機嫌さを滲ませた以外は相変わらず何を考えているのか分からない表情をした男がそこに立っている。
「気をつけて帰れよ。何かあったらすぐ連絡しろ」
まだ飽きもせずにくだらない台詞を吐き続ける男に、いい加減私の怒りも頂点に達するけれど、決してそれを見せることはしない。
代わりに不敵な笑みを口元に作ると、そっと告げる。
「さようなら。稲葉せんせ」
そのままもう振り返らず、扉を開け外に出る。
カチャリ、またひとつ世界と私とを隔てる音がした――……。