白百合なんて似合わない
2.
「今日はお祝いだから、ユタリアの大好きな子羊のテリーヌだぞ」
「やった! お父様、大好き!」
「あら、提案したのは私ですけどね」
「もちろんお母様のことも大好きよ」
8年にも渡る任務を見事に遂行した私は、人目を気にせずに大きくカットしたテリーヌを頬張った。
「うーん、美味しい!」
はっきり言ってマナーだ、なんだかんだと言って、チマチマ食べるのは性に合わない。大口開いて食べるなんてはしたないと言いたくなる気持ちも分からなくもないし、マナーに厳しいリーゼロット様なら真っ先に顔をしかめることだろう。だがせめて好物くらいは好きに食べたいものである。しかし貴族の娘に産まれた以上、それが許されることはない。誰かに後ろ指を指されるようなことがあれば、家に迷惑を掛けてしまうからだ。だから私は家族しかいないこの空間でしか、心を解放することが出来ない。別に人を信用してないわけではない。だが懇意にしているご令嬢達とのお茶会の時でさえも、通常装備となった石膏の仮面を装着してつい取り繕ってしまうのだ。
屋敷から一歩でも外に出たら。
家族以外の人がこの屋敷に入ってきたら。
――そうなれば私は貴族のご令嬢を演じるだけだ。
なぜこうなってしまったのかは自分ではよくわからない。昔からそうだったと言われればそんな感じがする。今のところは大大お婆様からの遺伝説が濃厚である。この生活、あまり不便ではないがなにかと疲れることは多い。
事情を知っている叔母様からは「ユタリアもさっさと理解のある旦那さんを見つけなさいよ」とせっつかれてはいる。
叔母様が指す理解のある旦那さんの例は、大大お婆様の心を見事射止めてみせた我らがご先祖様、大大お爺様のことである。
彼の寛大さは今なお徐々に薄らぎつつもハリンストン家の男性の身体に流れている。お父様で薄らいでいるというのだから、会ったことはなくともよほど寛大な心を持っていたことは想像に容易い。私だってそんな相手がいるのならばこちらからプロポーズをしてでも迎え入れたいものだ。だが生憎、私の人生は大大お婆様やロマンス小説の中の出来事のようにうまくは進まない。期待したって無駄である。……ということで私が望むのは妻にあまり興味がない男性だ。関心がなければ毎日必死に取り繕う必要もないだろう。ある程度体裁を気にしてくれるのならば、愛人を囲うことを容認してもいい。仮面夫婦だろうがなんだろうが、私の精神が第一だ。夫からの愛だけが心を豊かにする訳ではない。
「ユタリア様、おかわりはいかがなさいますか?」
「お願い」
だがそんなお相手を見つけるまで、精々この8年間出来なかったことを楽しもうではないか!
テリーヌを口いっぱいに頬張って、これからの幸せを噛み締めるのであった。
「よし、こんなところかしらね」
若草色のエプロンドレスに、茶色のブーツ。髪はドレスと同じ色のリボンで1つに括った。全面鏡に映る私を確認し、納得いく出来栄えについつい頷く。
城下町に繰り出すのは8年ぶりだが、元より地味な顔つきが功を奏し、相変わらず問題なく町に溶け込めそうである。これだからくすんだ金髪も海の奥底のように暗い青色の瞳も嫌いにはなれないのだ。
「お姉様、もう行くの?」
「ええ。お土産、期待していてね」
「気をつけてね」
ミランダに見守られながら、町娘に擬態した私はお父様の用意してくれた小さな馬車へと乗り込む。
『必ず馬車に乗って出かけること』――これは私がお父様と約束をしたことの1つである。
他にも、城下町内での移動に使用人を付けない代わりに滞在時間は1時間だけだとか、城下町に遊びに行く時には必ずお父様に申告すること、といくつかの約束事を取り決められている。
その中で一番重要なのはやはり1回の外出に与えられるお小遣いは2000リンスということだろう。
今回の目的であるクレープは、自然素材を売りにすること、そして王国一の名を物にするだけあって、中々のお値段がする。ミランダのお土産としても買う予定のチョコバナナクレープはなんと1つ1000リンス。私の好きなロマンス小説よりもお高いのである。だがその価値は十分にある。
チョコソースはカカオからこだわっているし、バナナや小麦粉だって決まった農家の物しか使用しない。そしてなんといっても目玉は生クリームだ。注文のたびに作るそのクリームの配合は一部の店員以外には明かされていないらしく、舌に乗せた瞬間にジュワッと溶けるのだ。出来ることならすぐに食べるのがおススメなのだが、お土産としても多少味は落ちるが十分に美味しい。
王子妃候補の役目を終えたらまず初めに食べに来ようと心に決めていた一品だ。
馬車を人目の少ない裏道に止めてもらい、行ってらっしゃいませと送り出してくれた使用人の優しい視線を背中で受け止める。そして記憶にバッチリと残っている、特徴的な真っ赤な看板を目指してせわしなく足を動かした。
「チョコバナナクレープを2つ。1つは持ち帰り用にしてもらえるかしら?」
お財布から本日のお小遣い、2000リンスを差し出して、完成を待つ。私の分とミランダへのお土産で1回分のお小遣いを使い切ってしまうが悔いはない。
美味しい物を食べる時、そして嬉しいことがあった時は分け合うのが一番なのだ。大事な妹ならなおのこと。
「お待たせいたしました」
5分ほど待つと完成したクレープを手渡してくれる。1つは簡易包装ですぐにでもかぶり付けるものを、もう1つは持ち帰り用に箱に詰めたもの。早速、念願のクレープを頬張るべく近くのベンチに移動しようとした。
……がその時に事件は起きた。
前方からやって来た背の高い男にぶつかったのである。
「ああ、私のクレープが!」
すると私の手の中にあったクレープはタイルの道へと真っ逆さま。お店自慢のクリームは私の口の中ではなく、タイルの上でその本領を発揮することとなってしまった。無機質な冷たさに当てられてしまったクレープのその柔らかさを楽しむことはもう出来ない。
「ちゃんと前見て歩きなさいよ!」
無残な姿になってしまったクレープの恨みを込めて、突然方向転換して私へとぶつかって来た背の高い男を睨みつける。上を見上げた瞬間に目に入ったのは思いの外、整った顔の男であったが、今は顔なんてどうでもいい。
大事なのは私が8年も待って手に入れたクレープが台無しにされたことである。
「ああ……」
男は興味がなさそうに落下したクレープを一瞥すると、騎士団服のポケットから10000リンスを取り出して私の手に握らせた。そして私にも、役目を果たせなかったクレープにも謝罪の言葉を一言もかけずに立ち去った。そんな礼儀知らずの男からもらった金など使う気にもなれない。
結局私はお土産のクレープと沸々とした怒りを抱え、大股で使用人の待つ馬車へと向かうのだった。
「今日はお祝いだから、ユタリアの大好きな子羊のテリーヌだぞ」
「やった! お父様、大好き!」
「あら、提案したのは私ですけどね」
「もちろんお母様のことも大好きよ」
8年にも渡る任務を見事に遂行した私は、人目を気にせずに大きくカットしたテリーヌを頬張った。
「うーん、美味しい!」
はっきり言ってマナーだ、なんだかんだと言って、チマチマ食べるのは性に合わない。大口開いて食べるなんてはしたないと言いたくなる気持ちも分からなくもないし、マナーに厳しいリーゼロット様なら真っ先に顔をしかめることだろう。だがせめて好物くらいは好きに食べたいものである。しかし貴族の娘に産まれた以上、それが許されることはない。誰かに後ろ指を指されるようなことがあれば、家に迷惑を掛けてしまうからだ。だから私は家族しかいないこの空間でしか、心を解放することが出来ない。別に人を信用してないわけではない。だが懇意にしているご令嬢達とのお茶会の時でさえも、通常装備となった石膏の仮面を装着してつい取り繕ってしまうのだ。
屋敷から一歩でも外に出たら。
家族以外の人がこの屋敷に入ってきたら。
――そうなれば私は貴族のご令嬢を演じるだけだ。
なぜこうなってしまったのかは自分ではよくわからない。昔からそうだったと言われればそんな感じがする。今のところは大大お婆様からの遺伝説が濃厚である。この生活、あまり不便ではないがなにかと疲れることは多い。
事情を知っている叔母様からは「ユタリアもさっさと理解のある旦那さんを見つけなさいよ」とせっつかれてはいる。
叔母様が指す理解のある旦那さんの例は、大大お婆様の心を見事射止めてみせた我らがご先祖様、大大お爺様のことである。
彼の寛大さは今なお徐々に薄らぎつつもハリンストン家の男性の身体に流れている。お父様で薄らいでいるというのだから、会ったことはなくともよほど寛大な心を持っていたことは想像に容易い。私だってそんな相手がいるのならばこちらからプロポーズをしてでも迎え入れたいものだ。だが生憎、私の人生は大大お婆様やロマンス小説の中の出来事のようにうまくは進まない。期待したって無駄である。……ということで私が望むのは妻にあまり興味がない男性だ。関心がなければ毎日必死に取り繕う必要もないだろう。ある程度体裁を気にしてくれるのならば、愛人を囲うことを容認してもいい。仮面夫婦だろうがなんだろうが、私の精神が第一だ。夫からの愛だけが心を豊かにする訳ではない。
「ユタリア様、おかわりはいかがなさいますか?」
「お願い」
だがそんなお相手を見つけるまで、精々この8年間出来なかったことを楽しもうではないか!
テリーヌを口いっぱいに頬張って、これからの幸せを噛み締めるのであった。
「よし、こんなところかしらね」
若草色のエプロンドレスに、茶色のブーツ。髪はドレスと同じ色のリボンで1つに括った。全面鏡に映る私を確認し、納得いく出来栄えについつい頷く。
城下町に繰り出すのは8年ぶりだが、元より地味な顔つきが功を奏し、相変わらず問題なく町に溶け込めそうである。これだからくすんだ金髪も海の奥底のように暗い青色の瞳も嫌いにはなれないのだ。
「お姉様、もう行くの?」
「ええ。お土産、期待していてね」
「気をつけてね」
ミランダに見守られながら、町娘に擬態した私はお父様の用意してくれた小さな馬車へと乗り込む。
『必ず馬車に乗って出かけること』――これは私がお父様と約束をしたことの1つである。
他にも、城下町内での移動に使用人を付けない代わりに滞在時間は1時間だけだとか、城下町に遊びに行く時には必ずお父様に申告すること、といくつかの約束事を取り決められている。
その中で一番重要なのはやはり1回の外出に与えられるお小遣いは2000リンスということだろう。
今回の目的であるクレープは、自然素材を売りにすること、そして王国一の名を物にするだけあって、中々のお値段がする。ミランダのお土産としても買う予定のチョコバナナクレープはなんと1つ1000リンス。私の好きなロマンス小説よりもお高いのである。だがその価値は十分にある。
チョコソースはカカオからこだわっているし、バナナや小麦粉だって決まった農家の物しか使用しない。そしてなんといっても目玉は生クリームだ。注文のたびに作るそのクリームの配合は一部の店員以外には明かされていないらしく、舌に乗せた瞬間にジュワッと溶けるのだ。出来ることならすぐに食べるのがおススメなのだが、お土産としても多少味は落ちるが十分に美味しい。
王子妃候補の役目を終えたらまず初めに食べに来ようと心に決めていた一品だ。
馬車を人目の少ない裏道に止めてもらい、行ってらっしゃいませと送り出してくれた使用人の優しい視線を背中で受け止める。そして記憶にバッチリと残っている、特徴的な真っ赤な看板を目指してせわしなく足を動かした。
「チョコバナナクレープを2つ。1つは持ち帰り用にしてもらえるかしら?」
お財布から本日のお小遣い、2000リンスを差し出して、完成を待つ。私の分とミランダへのお土産で1回分のお小遣いを使い切ってしまうが悔いはない。
美味しい物を食べる時、そして嬉しいことがあった時は分け合うのが一番なのだ。大事な妹ならなおのこと。
「お待たせいたしました」
5分ほど待つと完成したクレープを手渡してくれる。1つは簡易包装ですぐにでもかぶり付けるものを、もう1つは持ち帰り用に箱に詰めたもの。早速、念願のクレープを頬張るべく近くのベンチに移動しようとした。
……がその時に事件は起きた。
前方からやって来た背の高い男にぶつかったのである。
「ああ、私のクレープが!」
すると私の手の中にあったクレープはタイルの道へと真っ逆さま。お店自慢のクリームは私の口の中ではなく、タイルの上でその本領を発揮することとなってしまった。無機質な冷たさに当てられてしまったクレープのその柔らかさを楽しむことはもう出来ない。
「ちゃんと前見て歩きなさいよ!」
無残な姿になってしまったクレープの恨みを込めて、突然方向転換して私へとぶつかって来た背の高い男を睨みつける。上を見上げた瞬間に目に入ったのは思いの外、整った顔の男であったが、今は顔なんてどうでもいい。
大事なのは私が8年も待って手に入れたクレープが台無しにされたことである。
「ああ……」
男は興味がなさそうに落下したクレープを一瞥すると、騎士団服のポケットから10000リンスを取り出して私の手に握らせた。そして私にも、役目を果たせなかったクレープにも謝罪の言葉を一言もかけずに立ち去った。そんな礼儀知らずの男からもらった金など使う気にもなれない。
結局私はお土産のクレープと沸々とした怒りを抱え、大股で使用人の待つ馬車へと向かうのだった。