婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした


「悪いな。探検の途中だったのだろう? マーサに聞いた」
「大丈夫です。休憩したらお屋敷に戻る予定でしたから。それで、お話というのは」

 強い日差しを避けて木陰を進みながらルシアスを見上げると、彼は薄い色の瞳を眩しそうに眇めバラ園の入り口を示すアーチを示した。
 背の高い彼の後ろに続きアーチをくぐれば、中央に琴を抱える女神の石像を配した見事なバラ園が広がる。

「──新しい農機具購入に出す補助金の件、先程父上に問題なく話が通った。おまえの作った試算書のおかげだ」
「そうでしたか、それは何よりのことです」

 先日領地に最新の農機具を卸すにあたり、費用対効果を示す試算書を作った。
 領民へ大幅な補助金を出したとしてもリターンは大きく、冷害や災害などの事態が起きたとしても従来と比べ復帰速度が増すといったもので、投資だと考えても回収にはさほどの期間を要さない。
 手伝いをすると毎度こういった作業が面倒過ぎて、表計算ソフトが欲しいところなのだが、この世にも算盤に似たものがあり私はそれを使えるのと、前の人生でも子供の頃に珠算を習っていた経験から暗算ができることが役立った。おかげで娘が魔王に功績を讃えられるのだから、前世の親も喜んでいることだろう。
 仕事の話をするとき、ルシアスと私は上司と部下然として、ちろちろと水が零れ落ちる日陰の石細工の縁に腰掛けながら、いくつかの用件について話し合った。

「わかった。おかげで状況が整理できた。やることが多すぎて何から手を付ければいいか、考えあぐねていたところだ」
「そろそろどなたか、おひとりでも補佐をつけられてはいかがですか? お義父様はますますルシェに権限を委譲されようとしていますし、いくらルシェでもこのままでは」
「何かしでかしそうか?」
「そういう心配はしていませんが、身が持たないと申し上げているんです。朝は早いし夜も遅いでしょう? ルシェの代わりはいないのですから」

 するとルシアスはやけに嬉しそうに目を細めて私を見据えた。

「そうか。そうだな」
「なんです、その顔は……」
「いや、なんでもない。補佐ならおまえがつけばいいだろう」
「わ、私はライリーとトーマをみなくてはなりませんので」
「俺の面倒も見ろ」
「なぜ」

 ルシアスは低く笑って、「まぁ補佐の件は真面目に考える」と言った。

「そうなさってください。今いる傍付きの方なら誰も喜んで補佐についてくれると思いますよ。私も引き続きお手伝いはしますから」
「手伝いは補佐にはならないのか?」
「……私が今以上出しゃばることをお義父様はよしとなさらないでしょう」

 ブラストラーデ侯爵夫人、つまり私の母は、家の内装に口を出しても侯爵としての仕事には何も言わないし手伝うようなこともない。
 仮にも広大な領地を預かる領主の妻であり、そこから実入りを得ているわけだから今少し領地経営に関心を示すなり、領民への心配りをするなりしてもいいのではと思うこともあったが、母は長閑な領地にほとんど赴くことはなく、王都のこの屋敷での暮らしを好んでいた。
 侯爵がそういった夫人の行動をよしとしている以上、娘の私が出しゃばることは小賢しく映ることだろう。

「いつも思うが、おまえは色々と気にしすぎじゃないのか?」
「ルシェが色々気にしなさすぎなんです。今朝だって、タイがベッドにおかれたままになっていて……」
「ああ、そこにあったのか。通りで探してもないわけだ」

 ああ、じゃないだろうが。

「マーサにでも見られたか?」
「ええ……帰ってきたルシェと縁談が流れた件で話をしていたと言っておきましたけど」
「事実だな」
「……あの、控えませんか? あのようなことは」
「あのようなこととは?」
「ですから、その……一緒に寝る、こと」
「よく眠れるんだが」

 しれっと言う。

「お見受けする限り、私に触れることにもだいぶ慣れたようですので」
「ソフィア」
「はい」

 顔をあげると、ルシアスは手入れの行き届いた白いバラを眺めたまま静かに口を開いた。

「実は、今日の出先で伯爵家の令嬢と話す機会があった。歳の頃はおまえと同じか、もう少し上か。赤味かかった金の髪の可憐な女性だ」

 赤味かかった金髪。可憐な女性。まさか──それは、リリーナ?
 心臓が急に大きな音で鳴り出す。

「ルシェ……」
「見ろ。その女にベタベタと触られたことを思い出しただけで、気色悪くて鳥肌が立つ」

 露骨な嫌悪も露わにルシアスはシャツの袖口を捲り、粟立つ肌を私に示した。

「へ?」
「この通りで、おまえ以外に触れられた時の嫌悪感は変わっていない」
「そ、そうですか……や、あ、あのでも、やはり一緒に寝るというのは、さすがに度が過ぎるというか」
「おまえは俺の体を案じているのだろう? 睡眠は大事だ」
「ですから、それは」
「……だが、そうだな。確かに度は過ぎていたかもしれない」
「おわかりくださいますか?」
「おまえがそれほどまで苦痛で、あまりに耐え難いというならば、無理強いするわけにもいくまい」

 まるで私のせいみたいな言い方をする。

「なんだ?」
「何でも、ありません」
「嫌なんだろう? 俺と寝るのが。とても嫌」
「ルシェ……お願いします、困るんです……」
「嫌ではないが困る?」
「……はい」
「ならはっきり言うといい。嫌ではないと、そうしたら俺の溜飲も下がる」

 いつの間に魔王様のご機嫌取りのターンになっていたのだろう。

「い……嫌ではないです」

 目が覚めてルシアスに抱かれていると気づくと、その度心臓が止まりそうになる。
 触れられて弾けそうになっている鼓動を聞かれ、このこまねずみは何を勘違いしているのかと思われたくない。
 外気のせいだけでなく熱くなる顔に目を伏せていると、ルシアスの伸ばした腕に抱きしめられた。

「ルシェ!?」
「ベッドに入るのは控えるようにする。その代わり、練習の方法はこれだ。一日に一度、必ずどこかで」
「えっ、練習台は継続なんですか?」
「誰がやめると言った?」

 身体が熱い。密着した身体に、ルシアスの汗の匂いを感じる。
 戸惑って目を白黒させるしかない私に、ルシアスはまるで幼い子供でもあやすように、髪を撫でこめかみに軽いキスを落とした。

「これはライリーにもする行為だ」

 先回りしてルシアスは言う。
 観念して頷いた私に彼は首元を緩めると、逞しい首筋を示してみせた。

「ほら、わかるか? さっきは女に腕を触られただけでゾッとしたが、おまえなら大丈夫だ。練習は続ける。従うな?」
「は、はい……」
「ソフィ。俺は、おまえなら」

 強くかき抱かれ、耳にかかる吐息に震えた私はぎゅっと目を閉じる。
 これは、この状況は。

 ──何の解決にもなってない!


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