婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
二章 フィリップ、またはただのフィル
(1)
ちょっといい暮らしをしている平民の娘──そのくらいに見える服が好みだった。
別に着飾ったドレスが嫌いというわけではないが、私にあまりその機会がないという反動で侍女たちは私を着飾るイコール腕の見せ所という意識があるのか、渾身の出来にしてやろうという気迫がすさまじい。
街に人気の旅芸人一座が来ていると聞き、私はこれも社会勉強になるかと、安息日にラインハルトとトーマを連れて覗いてみることにした。
日頃も街に散策や買い物に赴くことはあるが、人の多い雑多な場所で貴族然とした格好でいるのはいらぬトラブルを引き寄せる。出かけるなら着飾れと意気込む侍女長のマーサをなだめすかし、それぞれちょっといい暮らしの平民ルックな装いに身を包んだ私と、ラインハルトにトーマ、クロエ。そして、従僕として、ルシアスと共に騎士団にいた経験のあるロバートを借りて、馬車で街へと向かった。
ルシアスは新しい農機具を領地に卸すにあたり代行業者を介して領民へ補助金等の説明会を開くそうで、その他の視察などを兼ねて二週間ほど領地に滞在することになっていた。
バラ園で話をして以来、ルシアスがベッドに潜り込んでくることはなくなったものの、彼はその代わり宣言通りに日に一度、だいたい夜半に真横においた私にその日の出来事を状況整理のごとくつらつらと話し、最終的にハグをするという謎のルーティンを完成させたので、誰かに見られたら終わりという私の状況は変わらずにいる。
それゆえ、ここしばらくのルシアスの不在に、私は大変開放的な気分になっていた。
「ロバートはケルン一座のショーを見たことあるんですって?」
ええ、と答えてロバートはそれでも周囲に気を配りながら続ける。
「何年か前に一度だけですがね。その時は、虎がいたんですよ。どでかい虎が」
「まぁ、虎」
するとラインハルトが「ねえさまは虎を見たことありますか?」と繋いでいた手を引いた。
虎ならば動物園の檻の中で何もせずただ猫のように眠っているのを眺めたことはあったが、あれは前世の記憶だ。そういうとき、私は、
「どうだったかしら」
と、とぼけることに決めていた。
「虎なんて、危険ではないのですか?」
不安を口にしたクロエに、ロバートは言う。
「よく飼い慣らされているようでしたよ。騎士団も流れてくる芸人一座には注意して、査察をいれることもありましたし、安全でないものならば王都で何度も芸を披露することは許されないでしょう。とはいえ、私も見た時はおっかなかった記憶がありますので、離れたところから見物することをおすすめします」
「ロバートでさえ恐れるなら、その忠告には絶対に従いましょうね」
朗らかな雰囲気でたどり着いた広場には、露店が並び、その横に簡単なステージが組まれていた。
すでに多くの人だかりが出来ており、私たちはチケットを買ってロープで区切られたスペースへと入る。だが、様々な階級、様々な格差のある街のことだから、扇子で風を送りながら気だるそうに待つ貴族風の人もいれば、チケットも持たずに人目を盗んでロープを潜り最前列へかき分けていくような平民の子供たちの姿も目にした。
ラインハルトもトーマもそしてクロエもやはり少し怖いというので、私たちは後ろのほうでステージを見守ることになった。私も初めて見るものだったが、大道芸と異国の音楽を組み合わせたような彼らのショーは想像以上に面白く、ラインハルトはロバートに肩車をしてもらい、トーマはクロエや私が交代で抱きかかえて、最後まで拍手をおくりながら楽しむことが出来た。
「虎、すごかったね!」
「ねえ!」
しなやかに飛び上がって輪を潜り、耳をつんざくような咆哮を上げた獣の様子をラインハルトとトーマは興奮した様子で語っている。こういう機会でもなければ本物を見ることもなかったはずだから、いい経験になったようだ。
気付けばそろそろ食事時だが、今日の件を手紙で知らせたところわざわざルシアスが、顔見知りのレストランに使いを送って予約してくれたという。ラインハルトたちに合わせようとすると、店を選ぶのも難しくなりがちなので、おかげで今日のランチはゆっくりと頂けそうでありがたかった。
「お食事が済んだら、ルシアスお兄様にお礼の品を買ってから帰りましょう。お戻りになってからお渡しすることになるから、茶葉とかがいいかしら」
「はーい」
「い!」
子供たちの元気な声に隣を歩むクロエは「私たちまで同席してしまって本当によろしいのでしょうか」と申し訳なさそうに眉をひそめる。
「同感です。私など、お嬢様の従僕を仰せつかっている身でありながら、同じテーブルに着くなど……本来であればお食事がお済になるまで戸口で控えているのが務め」
畏まるロバートに、クロエまでもがつられている。
「ふたりとも。お兄様がよいと言ってくださっているのだから、今日は甘えましょう。お兄様もふたりの日頃の働きには感謝していて、それを労うためなのだから、素直に喜んでもらったほうがお兄様としても報われると思うわ」
「お嬢様ァ!」
「感謝するならお兄様へ」
「ああ若様」
「このロバート、ルシアス様に生涯を捧げ、誠心誠意、身を尽くしますぅ!」
とりあえずふたりの中のルシアスの株は上がって、大人しくレストランの同じ席にもついてくれる気になったようで安心した。ルシアスは雰囲気が冷たいので、恐れを抱く使用人も少なくはないのだ。これが世の貴族の使用人に対する一般的な距離感なのかもしれないが、いやいや世話をされるより、好かれたほうがいいに決まっている。
「あの……ねえさま」
ふと声をかけられ、ラインハルトに目を向けると何やらもじもじとした様子でこちらを見あげていた。
「ぼ……ぼく」
「もしかして御手洗にいきたい?」
「はい、ごめんなさい」
「謝ることなんてないわ。教えてくれてありがとう」
トーマは? と尋ねれば神妙な顔で頷く。ということは、こっちもだ。
「このあたりなら私に宛がありますので、おふたりをお連れします」
「ありがとう、ロバート。頼むわね」
「お嬢様と私はあちらの日陰でお待ちしております。トーマ、ロバートの言うことをよく聞いて」
小さなふたりを抱える勢いで消えたロバートも実は用を足したかったのかもしれない。
クロエと私は連れ立ってレストランのある場所に向かうため、すぐそばの人通りの多い場所からひとつ外れた通りに向った。
ドレスを身にまとう世の貴婦人たちは、馬車から降りて街中を歩くことを嫌うそうだが、ちょっといい平民ルックな私たちはいちいち馬車に乗ってレストランまでの少しの距離を移動するのは返って面倒に思えた。帰りはこの通り沿いにある店でルシアスへの土産を買えば効率もよい。