婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした

(2)

 街歩きから数日後、侯爵邸の私宛に一通の手紙が届いた。
 差出人はフィリップという名前のみで、不審に思った執事のティムと侍女長のマーサが私に断りを入れてから中を改めると、先日街で手当をした青年からのものだった。
 自分の軽率さに内心わたわたして、彼の名前は聞いていなかったことを思い出す。

 手紙には、ハンカチにあった交じり合う双剣と蔦の刺繍から、ブラストラーデの紋と見て、あの時従僕が呼んだ「ソフィア」という名から、リカルド・ブラストラーデ侯爵の一人娘であるソフィア嬢に辿り着いたと記されていた。
 詮索した非礼を詫びる文面に続き、ついては先日の礼をさせてほしいという旨が質のいい薄紙に綴られている。

 礼をしたいという割に、内容は私を街に呼び出すもので、日付は明日の午後。指定されたのは名を聞いたことのあるカフェだったが、そこのテラスで待っているので、来なければそれを返答とするとあった。
 返事を出そうにもどこのフィリップともわからない。思い出される爽やか好青年の見目にしては、かなり強引な方法だと思った。

 先日の出来事はしっかり聞き及んでいたらしく、マーサは手紙に色めき立った。
 大方、相手はかなりの美青年で、お忍びで街歩きをしていたらしき貴族とでもクロエに聞かされたに違いない。
 これだけ長らく一緒にいて、私の男運のなさを知らないわけもなかろうに。
 手紙の主をカフェでひとり待ちぼうけにするわけにもいかず、私は結局、ロバートを伴って翌日街へ出かけたのだった。

   *

「来てくれたんだね。ありがとう」

 現れた私に勢いよく席を立ち、フィリップはほっとしたように胸を撫で下ろした。完璧なエスコートで席に着き、私はテラスの端で生真面目に控えるロバートに一度視線を向けてから口を開いた。

「お手紙を頂いて驚きました」
「ごめん。あんな方法になってしまって。でも、どうしても君にお礼がしたかったものだから」
「こちらこそ、名乗りもせずに大変な失礼を」
「僕こそ名乗っていなかったのだから、おあいこだ」

 日差しを遮る大きなパラソルの下、琥珀色のティーカップが丁寧に給仕されるのを待ってから、フィリップは居住まいをただした。

「改めて、僕はフィリップだ」
「どちらのフィリップ様か伺っても?」
「今のところはただのフィリップではいけないかな」
「……やましいところでもおありですか?」
「やましさは……まぁないわけではないけど、誓って不実というわけではなくて。この間、僕と君は街中で偶然出会って、お互い名も知らず自然に言葉を交わしただろう? 家名を知ってしまえばどうしたって、それがついてまわる。僕の後ろにある余計なものを見るのではなく、まずは僕自身を知ってもらえたらうれしいと思って」
「でも、わたくしのことはご存知ですよね?」
「あ……それは、その……ごめん」

 はっきりしたフィリップの碧い目が忙しなく表情を変える。
 素直なその様が確かに誠実に思えて、私は自然と頬が緩んだ。

「お気になさらないでくださいませ。ただのフィリップ様で問題ございませんわ」
「ありがとう! それじゃその様というのもなしにして、話し方ももっとあの時みたいに砕けてもらって構わない。僕のことは、どうかフィルと」
「そこまで?」
「いけないかな。君は名門侯爵家の令嬢にしては、堅苦しくない印象だったんだけど。木に登ってやろうとしたくらいなのだから、か弱き深窓のご令嬢でいらっしゃるという噂も、どうやらただの噂みたいだね」

 大変不味いところを目撃されたわけだ。
 私の貴族令嬢としての修行が足りなかったようである。

「……なら、お言葉に甘えて」
「ありがとう。フィルだ。ソフィアの愛称はソフィ?」
「ええ」
「なら、ソフィと呼んでも?」
「どうぞお好きに、フィル」

 やった、と噛み締めるフィリップははにかんで嬉しそうに笑う。朗らか好青年だ。彼はそれから私にケーキはどうかと勧め、店員に悩みながらも季節のタルトを注文した。

「ソフィはいくつ?」
「十七です。フィルは?」
「僕は二十歳。先に言っておくと、独身で婚約者もいない三男坊だよ。ソフィのことを聞いても構わない? あ、君にいま婚約者がいないということだけは調べました……」
「ふふっ、フィルは正直村のご出身のようで」
「正直村?」
「嘘がつけない誠実な方という意味ですよ。お調べになったということは、私のもうひとつの噂も耳にされたのでは?」

 そこでちょうどタルトが運ばれてきて、私の視線は目にも鮮やかなレモンタルトに向けられる。

「……なかなか縁談がまとまらないみたいだね」
「社交界の噂に聞けば、ブラストラーデ侯の娘は結婚できない呪いをかけられているとか。まぁ、私としては、神様がろくでもない男との縁談を阻止し続けてくださっているというふうに解釈して、感謝しているくらいです。先日もまた話が流れました」

 レモンタルトは爽やかな酸味があってとても美味しい。
 感想を表情に乗せて笑ってみせると、フィリップは私を見つめすぐに肩の力を抜いた。

「ソフィは前向きなんだね」
「婚約破棄は一度ですが、浮いた話が消えたのを含めるとこれで六度目なんです。開き直らないとやっていられませんでしょう。神様凄腕だと思いません?」
「それに、おもしろい人だ」
「普段は努めて侯爵令嬢のふりをしておりますわ」

 くつくつ笑ってフィリップもタルトを口にする。

「おお、これはさっぱりしておいしいね。おばあ様のお土産にしようかな」
「フィルは、おばあ様と暮らしているんですか?」
「うん。家族もすぐ近くに住んでいるんだけど、うちは兄弟が多いしいろいろとやかましいし、僕はおばあ様の家のほうがどうも居心地がよくてね。まぁよく叱られてはいるから、こういう賄賂がかかせないんだ」
「なるほど」
「君と初めて会った日もあちこち回って用を済ませていたら遅くなってしまって、ちゃんとお土産は持って帰ったのだけど、こんな時間までどこほっつき歩いてんだこの放蕩孫ォ! って言われてしまった」
「賄賂効いていないのでは?」
「あれ、本当だ……」

 フィリップとは話が弾んだ。
 彼は立ちっぱなしになっていたロバートにも近くのテーブルを勧めてお茶とケーキを振舞ってくれ、話し込むうちにあっという間に時間が過ぎた。

「──ごめんね、すっかり長居させてしまって」
「いえ、楽しかったです。こんなに笑って話したのは久しぶり」
「本当に?」

 頷けばフィリップは嬉しそうに碧い目を柔らかく細め、「僕もだ」と口にした。

「あ、そうだ。大事なことを忘れていた。これは、君に」

 言って彼は、四角い包みを差し出した。

「ハンカチをダメにしてしまったから、そのお詫びだ」
「いいのに」
「気にしないで。ここで宝石のひとつでも渡せたらよかったけど、ハンカチのお詫びは残念ながらただのハンカチだ」
「なら、遠慮なく。ありがとう、フィル」
「こちらこそ。それから、これは弟くんたちに」

 どうぞと引き渡された両手に抱えるほどの箱には、細いリボンがかけられ封蝋で止められている。見たことのあるそれを記憶に探りながら、断りを入れて箱を開けると、油紙に包まれていくつもの焼き菓子が入っていた。

「もしかして、アンダンテのお菓子ですか?」
「ご明察」
「王室御用達! 並ばないと買えない!」
「お目が高い」

 侯爵邸でもこれを手土産に持参してくる客人は、密かに評判が上がるらしい。

「ライリーだったかな、おねえさまとの時間を奪ってしまって申し訳ないと伝えて」
「賄賂です?」
「実に聡明そうな弟君だったから、僕がいい人だってきっと伝わるはず」

 あまりに露骨な賄賂に堪えきれず笑ってしまった。

「今日──、君と話をしてみて改めて思った。僕をただの僕として見てくれて、気の合う友人がずっと欲しかったんだ。だからソフィ、よかったら僕の友人になってくれないかな」
「ええ、私でよければ喜んで」

 肩書がつけば色眼鏡を通して見られてしまう。
 こんなふうに自然と誰かと知り合うという経験など私にはほとんどなかった。幼い頃はろくに表に出されることもなく、侯爵家に移ってからはブラストラーデの娘として行動することを求められる。
 幸運にも、私には肩書を気にしない天真爛漫な友達がいたし、ルシアスにはウィリアムがいる。けれど、これは本当に”幸運”なことだったのだろうと気が付いた。


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