婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
(2)
フィリップ・クロス・アライザー。
彼はこの国を統べる王家の第三王子であり、私の知る小説のストーリーにおいては、愛しきリリーナと共にルシアスの陰謀を暴き、傷つきながらも彼女を守り抜くもうひとりの主人公だ。
主人公なのに、王子の名前がうろ覚えだった己の記憶に腹が立つ。作中でリリーナはずっと彼をフィルと呼んでいたというのに。
「すまないことをしたね、ソフィ……」
「とんでもないことでございます……なぜ、気づかなかったかと……」
緑が咲き誇る庭に設けられた噴水前の長椅子で、首が折れる勢いで俯く私の手にフィリップは男性的な形を描く大きな手をそっと重ねた。
驚いて顔を上げれば、フィリップは重ねた手を逃すまいと掴む。
「本当にごめん。今日打ち明けようと思っていたんだ。すべて」
「殿下……」
「ほら、そうなってしまうのが嫌だった。僕がどこのフィリップか知れば、君と心の距離が開く」
確かに初めから彼がフィリップ王子であると知っていれば、私は彼に近づかなかっただろう。たとえ、その出会いが小説と関わらないところであったとしても、王族と私との間には大きな隔たりがある。
「君の前では普通の僕でいたかった。ソフィとの時間は本当に楽しかったから」
フィリップとは友人になってからも二度ほど会った。
一度目は街に来ていた旅芸人一座と知り合えて、虎を間近で見られるけどライリーたちもどうかという誘いで、提案はしてみたもののラインハルトたちは尻込みしてしまったようだから私はロバートを従僕に借りて、彼と落ち合った。
フィリップは一座の人々と異国の言葉を自然と交わし、彼の教養の高さに感心して、共に虎の檻を見たのだ。
二度目は、今度こそと言うのでラインハルトやトーマと共に、広い芝生の広がる公園にピクニックに行った。フィリップはそこに、おばあ様がご自宅で飼っている“ゾル”という名の艶やかな毛並みの犬を連れてきてくれて、フィリップもラインハルトもトーマも、汗だくになるまで犬と駆けまわったのだ。以来ラインハルトは、フィル兄さまフィル兄さまとすっかりフィリップに懐いて、私が密かに計画していたフィリップ家庭教師計画もこれで安泰と思っていたのに──
まさか殿下とは……。
というか、おばあ様って先の女王陛下のことで、陛下の飼い犬に棒切れ投げて取って来させていた私って……。
「調べようと思えば、僕の素性はいくらでも調べられたはずだ。でも、君は僕がただのフィリップでいたいと言った気持ちを尊重して、探ろうとはしなかった。何でもない僕という個人を信用して、君の大事な家族に会わせてくれて、一緒にお弁当を食べて、たくさん笑い合った。僕はそれが、それがとても嬉しかったんだよ、ソフィ」
「フィル」
「その名を呼んでくれるのであれば、どうかこれまでの僕を許してほしい。そして、改めて──僕を受けれてくれないか」
嫌な予感がした。
その先を聞きたくない。
「ソフィアッ!」
はっとして振り返ると息を切らしたルシアスが目に飛び込んできた。ウィリアムに聞いてあたりを探したのだろう。
「ルシェ」
立ち上がろうとしたところで、腕を引かれた。
掴んだ手を放そうとしないフィリップは、私に微笑みかけながら共にゆっくりと長椅子から立ち上がり、ルシアスへ碧い目を向ける。
「……フィリップ、殿下」
「こうして言葉を交わすのも久しぶりだな、ルシアス・ブラストラーデ」
第三王子はこの数年諸外国に留学し、見識を積んで王宮に戻ったと耳にしていた。ルシアスであれば、王族が顔を出す夜会や会合にも侯爵家の次期当主として顔を出すから、双方顔見知りであって不思議ではない。
「聞いていたとは思うが、僕が君の妹の友人となったフィルだ。打ち明けるのが遅くなってしまったことに、いま許しを得たところでね」
「殿下。お話したいのは山々ですが、我々はもう失礼させていただくところでした。この件については機を改めて、非礼をお詫び申し上げる。──ソフィア、来い」
踏み出したものの、フィリップは手を放さない。
「もう少し話したい」
「殿下、申し訳ございません。どうか……」
「どうしても?」
小さく頷くと、フィリップは「わかった」とこぼして、掴んでいた私の手をするりと撫でる。
「では、これだけ。君が好きだよ、ソフィ。僕と結婚してほしい」
掲げた指先に口づけられ、彼の碧い目がまっすぐに私を見つめていた。
口を開く前に、私はルシアスに強く腕を取られた。
「失礼する」
短く鋭く言い捨てて、ルシアスは私を掴んだまま足早にフィリップに背を向ける。ずかずか進む大股の歩幅に私はついていくのもやっとで、彼は途中で待っていたらしきウィリアムから預けていた私の日傘を奪い取ると、無言のまま私を馬車に押し込んだ。
馬車の中でもルシアスは口を利かず、私もまた混乱して何を言うこともできなかった。
──君が好きだよ、ソフィ。僕と結婚してほしい
まわりから焚きつけられることはあろうと覚悟していたが、フィリップ自身からその台詞を真っ先に聞かされるとは思わなかった。
屋敷に戻り、離れの自室へ向かう。
「友達じゃなかったの……?」
急な帰宅に驚いて駆け寄ってきたマーサに支度は自分ですると告げて、私はひとりため息をこぼしながらアクセサリーの類を外していた。背中に腕を回し、ドレスを緩めようとしたところでノックもなく部屋のドアが開いた。
「手は洗ったか」
「ルシェ」
「洗ったのかと聞いた」
見たこともないようなきつい眦に、まだですと答えを絞り出すと、私はまた強引に腕を取られ今度はバスルームに押し込まれた。
ルシアスの手が乱雑にドレスのホックを外し、下着姿に暴かれる。
「ルシェ! やめてください! やめて」
よろめいて床に尻餅をつき、すると私は突如として頭から水を浴びせかけられた。滴り落ちる水滴に咄嗟に何が起きたのかわからず驚いて顔をあげると、ルシアスが近くにあった手洗い用の桶を掴んでいた。
「ルシェ……?」
水浸しになったのは私なのに、どうしてこの人のほうがそんな苦しそうな、悔しそうな、泣き出してしまいそうな顔をしているのか。
「ルシアス」
床に落ちた桶が甲高い音を立てる。
私ひとりがバスルームに取り残された。