婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした

 (3)

 私は前門を選んだ。
 あの場の空気感にどうにも耐えられなかった。
 世界の引力によってあの状況のルシアスがリリーナに心を奪われ、私が焼き討ちエンドに至る可能性というのはまだあるのだろうか。

「ごめんね、突然来たりして」

 フィリップの言葉に顔を上げたものの、私はすぐにその視線を芝の上に落とした。

「やはり先触れもなしにというのは困ります」
「そうだよね」
「フィルならきっとクロエたちが困るとわかっていて、そんなことしないでしょう?」

 ズルい言い方をしたが、フィリップははっとして恥じ入るように長いまつ毛を伏せ、頬に影を作った。

「本当にごめん。君の言う通りだ」
「わかっていただけたのであればこれ以上申し上げることはありません。それよりも、お花をありがとうございました」
「迷惑だとは思ったけど、何もせずにはいられなくて」

 私は庭を進みながらガゼボを示し、フィリップと共に長椅子に腰を下ろす。

「殿下に何をお返ししたものかと家中で悩んでいるところです」
「お返しなんていいよ。フィリップがお宅の娘さんに夢中ですよっていう、ただのアピールなんだから。……パーティからずっと君を困らせてばかりだね」
「何から何まで本当に驚きましたけど、おかげでフィルがどういう人かよくよくわかりました」
「僕?」
「強引な方だなというのは初めて会った時から思っていましたけど」
「えっ、どのへんが?」
「来なかったらそれを返事とするからカフェで待ってるなんて、ちょっとした脅迫でしょうよ」
「断りの手紙見たくなかったんだ」
「断らせないようにしたってことでしょう。正体がわかったと思ったらこの通りに畳み掛けられて、外堀を埋めるのが早すぎるし、私はもう手も足も出せない状況ですよ。さすがは殿下とお見逸れ致しました」
「……嫌われたかな」

 フィリップが金の髪の奥から窺い見る様子に、私は思っていたことを告げた。

「フィルとは気があっていい友達になれると思ってたので、それだけが残念です」
「僕は君となら、友達だけじゃなく、いいパートナーにもなれると思ってる」
「殿下にはティーセル公国の姫君との縁談が持ち上がっていると伺いました」
「政治上、勝手に上がった話で僕の意志ではない。話は何も進んでいないし、正式なものではないんだ。両親を必ず説得して君を迎え入れるよ」
「恥ずかしながらわたくしは侯爵家の娘とはいえ、十分な教育を受けているとは申し上げられません。殿下のお立場上、この身では期待に応えられぬのではございませんか」
「それだけの受け答えができるなら十分だ。必要があれば機会は用意するし、君が望めば僕は王家を出ることだって構わない。新たな公家としてでも、田舎暮らしでも、僕は諸外国にツテもあるから、この国以外の選択肢も可能だ」
「そんな簡単におっしゃらないでください」
「ごめん……気持ちばかり急いてしまって。でも、僕は色々な国も色々な人も見て、やっぱり心から好きな相手を人生のパートナーにしたいと思ったんだ。僕は君が好きだよ、ソフィ」

 フィリップは言葉が出なくなった私を前に、ややあって静かに口を開いた。

「急いで答えを出してほしいわけじゃない。戸惑うのも当然だと思う。少しだけ、質問をしてもいいかな」

 ええ、と頷くとフィリップは微笑んで首を傾げる。

「僕は嫌い?」
「その質問はずるい。嫌いなはずないでしょう」
「ごめん。じゃあ、質問を変える。僕と一緒にいるのは楽しかった?」
「もちろんです」
「話すのは?」
「……楽しいです、とっても」
「……触れたいと思ったことある?」
「フィルに?」
「ああ」

 問われて私は考えてみた。

「わからない。でも、一度だけ飛びついてしまったことがありましたよね?」
「虎に吼えられた時のこと?」

 頷いて途端恥ずかしさを思い出してしまった。
 フィリップに誘われてケルン一座の虎を見に出かけた時、覗いた檻の中で、虎はまるきり大きな猫のように思えた。そこで一座の子供が私たちをからかって虎に吼えるよう合図を出したのだ。牙を剥かれた私は驚いて思わずそばにいたフィリップに飛びついてしまい、彼は私を抱きとめた。

「僕は嬉しかったよ。君の従僕より僕を選んでくれたこと」
「ロバートは虎が怖くて近寄りませんでした。従僕のくせにね」

 それを盾にフィリップに飛びついたことをルシアスに言わないよう取引したのだった。
 でも、あの時ロバートが近くにいたとして、私はロバートに飛びついたりしただろうか。

「フィルのことはきっと信頼していたんだと思います。だからあの時無意識でもすがった。でも、それと触れたいかどうかは違う気がします」
「そうか。僕は触れたい。君に」言ってフィリップは指の背で私の頬にそっと触れた。「抱きしめて、キスをしたいと思ってる。それ以上のことも」
「フィル……」
「質問はあとひとつ。ずっと聞かなくちゃと思っていた。ソフィは他に誰か、好きな人はいる? 君が深くまで触れてみたいと思う相手、触れられて嬉しいと思う誰か」

 不意にルシアスの顔が浮かんだ。首の後ろにさっき感じた熱を思い出す。

「……わかりません」
「いないじゃなくて、わからないなんだね」

 そこで長椅子から立ち上がったフィリップにつられて顔を上げると、ルシアスがこちらに向かってやって来るところだった。夏の終わりの日差しに彼の銀の髪が煌めき、険しい顔つきで、握りしめる拳には力がこもっている。

「逢瀬の時間はもう十分でしょう」
「実に名残惜しいよ。客人との用向きは済んだのかな、ルシアス」
「あれは客ではなく闖入者の類です。殿下の御前で事を荒立てたくはなかったので一通りの話は聞きましたが、速やかにお帰りいただいた」
「そうか。君にずいぶんとご執心のようだったけど、つれないのだね。まぁ、──そばにこれだけ美しい妹がいれば無理もない」

 ルシアスははっきりとした怒気が浮いた眼差しでフィリップをきつく睨みつけ、私の肩を掴んでぐっと引き寄せた。

「妹と思ったことなど一度も無い」
「ルシアス! 殿下の御前です!」
「構わないよ、ソフィ。先日のパーティで僕の前から君を連れ去った時から、そんなことだろうと思っていたんだ。義妹に己の劣情を一方的に押し付けるとは恐れ入る」

 私を掴むルシアスの手に痛いほど力がこもる。

「その想いを突き通したところで、待っているのは茨の道だ。ソフィアを幸せにはできない。どうすることが最善か、わかっているのだろう? ブラストラーデ次期侯爵」

 普段の柔和な印象からは別人のようなフィリップの碧く力強い眦の前にルシアスの青灰の瞳が伏せられた。
 誰かの前で、彼の敗北を見るのは初めてだった。
 するとそこで──

「フィルにいさま!」

 庭に弾んだ幼い声が響き渡り、フィリップは声の主を目にとめて、すぐに柔らかく笑みを浮かべた。

「ライリー!」

 無邪気に駆け込んできたラインハルトを抱きとめ、フィリップは奥でこっちに駆け寄りたいのにクロエに掴まれてじたばたもがくトーマにも笑いかけて「いいよ、クロエ。トーマもおいで」と呼びかけた。放たれた矢のようにトーマも走ってフィリップに飛びつく。

「ラインハルト、トーマ、その方は」
「待って、ソフィ。僕から」

 フィリップは私を制すると腰を折ってふたりと視線を合わせた。

「ライリー、トーマ。ふたりともこの前のピクニックで一緒に遊んだゾルを覚えてる?」
「はい! とってもかわいくて、いいこでした」
「ん!」
「ゾルも君たちが気に入って、また遊びたいみたいなんだ。ゾルは僕のおばあ様の家にいるんだけど、僕やおばあ様の家はお城にあってね」
「お城って王さまがいらっしゃるところでしょう?」
「ライリーはもうそんな立派なお話の仕方ができるのか。そうだよ、王様がいらっしゃる。国王陛下、──僕のお父様だ」
「え?」
「僕はこの国の三番目の王子なんだ。だから僕や僕の家族はみんな、お城に住んでいる」
「……王子さま?」

 ラインハルトはその空色の澄んだ瞳を私やルシアスに向けた。
 頷いてみせると、すぐさま理解した彼はまだ幼い体でフィリップから一歩身を引き、膝を折った。

「いいんだ、いいんだよライリー。君はなんて賢いのだろう。さあ、顔を見せて。君と僕は友だちだ。トーマも」

 フィリップに促されラインハルトはおずおずと顔を上げる。

「王子さまとは……どんなお話のしかたをしたらいいですか?」
「今までと同じで大丈夫。どうか、これまで通り君と仲良しのフィルでいさせて」

 どうしたらいいのか戸惑うラインハルトに、私はあえてフィリップの横に並んで小さな弟に視線を向けた。

「そうさせていただきましょう。フィルはとても優しい方だから、大丈夫」
「姉さまの言う通りだよ。実は、君の姉さまともっと仲良くなりたくて、僕は本当のことをお話したんだ」
「ねえさまにすてきな王子さまからお花がとどいているってマーサたちが言ってましたけど、それもフィルにいさまが?」
「そう。仲良しになってほしくてプレゼントした。今度はライリーたちにも何か贈るよ、お菓子がいいかな」

 ラインハルトはにっこりと深く微笑むと私に向かって「フィルにいさまと仲良くしてくださいね、ねえさま」と言い、そして、
「ルシェにいさまも」
 と無邪気に言った。

「……ああ」
「今日のところはこれで失礼するよ。急なところをもてなしてくれてありがとう、ルシアス。ソフィ、会えてよかった。僕は両親を必ず説得して、君を振り向かせてみせるから」
「フィル……」

 君たちにも会えてよかったよ、とフィリップは爽やかに微笑んでラインハルトたちの頭を撫でた。

「クロエ、次から伺う時には必ず先触れをだそう。急ぎ支度をさせてしまったみんなにどうか詫びを伝えてほしい」
「恐悦至極に存じます、殿下」
「それから、僕も実は言葉が遅かったんだ。トーマくらいの歳までほとんど話さなかったらしくて、ひとりで黙々と好きなことばかりして両親をヤキモキさせたそうでね。おばあ様はそのうちうるさいくらい喋り出すから放っておけと言ってこの通り。ただ、心配ならば医者や僕も知る訓練士を紹介するよ。せっかくできた縁だ、頼りなさい」
「なんと……なんと畏れ多いことか、感謝の申し上げようもございません」
「いいんだ。これも作戦のうちだから、君からもソフィによろしく伝えて──なんてね」

 それじゃ、と言ってフィリップは見送りもさせずに駆けて行った。
 追いついたときにはすでに馬車が出た後で、嵐のように去っていた殿下の訪問に私たちはただただ呆気にとられたのだった。


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