婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
(4)
フィリップが去るとぞろぞろと様子を窺いにやってきた使用人たちの中に、ティムやロバートの顔をみかけ、執務室のごちゃついた机の上を思い出した私たちは、余計なことを考える暇もなくただ黙々と手を動かし続けた。
怒涛の一日だ。普段以上の疲れに襲われながらふらふらと就寝の支度をしていると、自室のドアが叩かれた。
「……ルシェ」
「入ってもいいか。少し話したい」
寝間着同然のラフな格好をしたルシアスは、私が横にずれてスペースを開けるとするりと入り込み、まるで自分の部屋のような自然な仕草で長椅子に腰を下ろす。
「何かお飲みになりますか?」
「酒は」
「私の部屋にはありません。ハーブティーをどうぞ」
就寝前にとマーサが用意してくれる落ち着いた香りのハーブティーをカップに注いでテーブルにおき、私はルシアスの向かいに座ろうとした。
「ソフィ」
顔を上げれば、ルシアスが自分の隣を叩いて示している。
おろしかけた腰を上げ、素直に隣に座って私はルシアスを見上げた。考えないようにしていたが、今日、私はこの男にどえらいことを打ち明けられた気がする。
「あの、昼間の件ですが、リリーナ嬢はなんと?」
「……そっちの話をするのか」
「少し気になったので……」
というか、本題を回避したかった。
「パーティでは助けられただのなんだのとつらつら同じようなことばかり言って、よかったら今度観劇にでも出かけないかと誘われた。だから無礼だと言って返した」
「わぁ……」
「ティムを呼んで頭のおかしい女を帰らせた。以上だ」
簡潔である。
やはりこの状況のルシアスがリリーナに惹かれていくという可能性は極めて低いだろう。すなわち、もはや私の知る小説の展開は関係がなくなった。
義兄ルシアスに支配された哀れなソフィアの山小屋焼き討ちエンドはない。しかし、だからといって、現状が八方丸く収まって穏やかに暮らせるような雰囲気でもないことは明らかだった。
ルシアスの大きな手が膝の上に置いていた私の手に重ねられる。
「俺からも、昼間の件を──おまえを妹と思いたくない。おまえと初めて会った時、腐った桟橋から池に落ちる俺におまえは咄嗟に手を伸ばしてくれた。あの日からずっと、俺はおまえだけを、ソフィアだけを求めている」
八年前。新たな家族となる人を紹介するとして、まだ“私”ではなかったソフィアは俯きながら母について侯爵邸を訪れた。
肌寒い春先のことで、母とブラストラーデ侯は話があるからと、ルシアスとソフィアで庭を見てくるように言われたのだ。
ルシアスは一言も口を利かず俯いてばかりのソフィアを冷めた表情で一瞥し、独りで庭を歩いた。ソフィアと彼女の乳母と、彼の従僕など一切視界にも入らぬようで、ただ時間を潰すために十一歳の彼は庭を突っ切り、そして小道を抜けた先にある池のほうへと向かった。
いまは整備されているが、当時あまり訪れる機会もなかったその場所は、ひと気もなく寂しいところで、ルシアスは薄氷の張った池を眺めて白い息を吐いていた。
乳母と従僕はおしゃべりに夢中で、ルシアスはソフィアが一歩詰めると同じ分だけ距離を開けた。それ以上近寄るなという意思の強い青灰の視線で、寒空と薄氷の池を背負いさらさらとした銀髪をなびかせるルシアスを、ソフィアの記憶をたどる限り、彼女はとても美しいと感じていた。
無感動で無感情だった彼女の中に強烈に焼き付いたルシアスという印象。
当のルシアスはソフィアを振り切るように、池にかかる桟橋へと足を向けた。使用するものがほとんどいない桟橋は朽ちていて、足を乗せた瞬間に腐り落ちて開いた穴からルシアスは池に落ちたのだ。近くにいたソフィアは落ちる瞬間を目の当たりにして、体格差など考えもせずに咄嗟に手を伸ばし、ルシアスを掴んでそのまま転落したのである。
「あの後、おまえは俺を気遣う手紙をくれた。次に顔を合わせると、別人のように明るくなって俺のあとをどこまでもついて回った。お兄様、と」
それは“私”だ。
「どちらが本当のおまえだったのか、俺にはもはやわからない。母親の後ろで幽鬼のように俯いていた少女はもうどこにもいない。だが、どちらのおまえも、俺を救ってくれた」
ルシアスは私を見やると、小さく息を吐いて笑う。
「あの頃の俺は、父の期待する通りに動く傀儡に過ぎなかった。求められるまま、期待される通りの振る舞いをするだけで、そこに俺の心はない。死んだ母親は病弱で、それでいて身の内に激情を隠した女だった。愛されたと感じたことなど一度もない。期待通りに動けなければ、折檻を受け、おまえのせいで私はこんなにも悲しくつらいのだと詰られる。そのすました目つきが気に入らないとな。あれが死んでせいせいした。もうあの金切り声を聞くこともない。なのに、新しく迎え入れた夫人が連れてきたおまえを見て、この女も母と同じ類なのだとすぐにわかったよ。──気づいた。結局、俺の人生というのはそんなものだ」
「ルシェ」
「でも違った。おまえがいた。ソフィ、おまえだけは俺の光だ。俺にたくさんの感情をくれた。優しさと、慈しみで心を溶かしてくれた。おまえはなんだか馬鹿みたいに必死だったが、おかげで俺はソフィだけは信じられた」
「馬鹿みたいって……確かにそう見えたかもしれませんけど」
こちらとしては仲良し兄妹作戦のために必死だったのだ。
「今も時々感じるが、どうしてあんな俺に好かれようと必死だったんだ? 家から追い出されたくないのかと思えば、そういうわけでもないようだ。金のためでも地位や見栄のためでもない。別に何をせずとも許される立場だ。なのに俺の仕事まで手伝って」
「そ、それは、私にもいろいろとあって……生き残るための作戦というか」
「オリヴィア夫人から何か言われていたのか?」
「そういうわけではありません。せっかくの兄妹なら仲がいいほうが過ごしやすいだろうと思っただけです……でも、兄と呼ぶなとあなたが言うから。妹がダメなら、使えるアピールしないとって」
「突き放されたと思ったのか? 俺としてはラインハルトが生まれて、はっきり自覚した。ソフィに感じるのは兄妹として思う愛しさとは違うと。誰にも渡したくない。俺だけの手の内において、おまえには俺だけを見ていて欲しかった。おまえと義理でも兄妹になるつもりはないという宣言だ」
「下僕でいろという宣言かと……」
ルシアスは呆れたようだった。俺を何だと思っているんだと問われたが、魔王ですとは素直に言えるわけもない。
「まぁ、俺の意図通りに受け取られたところで、あの頃はどうしようもなかったし、困らせただけだろう。おまえはそうして都合よく勘違いしてくれたから、そのまま体よく利用させてもらった。大人しく言うことを聞く」
「そんなぁ」
「反応がいちいち可愛くて面白かった。愛おしくてならなかった。騎士団に入ったのも理由があったが、少し離れて戻ってきてみれば、おまえは美しい女に変わっていて、おまえを手に入れるためにもっと時間をかけるつもりだったはずが我慢ならなくなった」
伸ばされた無骨な指先が目縁をなぞり、頬を撫でていく。
「触れる口実が欲しかった。ウィルの入れ知恵だ」
「……打ち明けられてしまった以上、もう練習台になることはできません」
「ああ。今日で終わりにする。嫌でなければ、最後に、唇へのキスを許してほしい」
──最後。
頷くと彼は愛おしそうに微笑んで、私を静かに抱き寄せた。そして青灰の瞳で見据えながら、「ソフィ、ひとつだけ聞かせて欲しい」と言う。
「あの男を好いているのか」
フィリップのことを好きか。
私は──
「わかりません……。とてもいい人で、好ましくて、ライリーは懐いているし、殿下ならきっと幸せにしてくださるのは明らかなのに、わからないではいけませんよね。ブラストラーデが王族に連なるのです。将来安泰、家門繁栄、間違いなし。これでも貴族の娘ですから、家のためになる結婚に抵抗する気はありませんわ」
「どうしておまえはそう打算的なんだ」
「打算って、好きだけではどうしようもないことだってあるでしょう。結婚とその後の生活なんて最たるもので、そういうときは、幸せになれる人数が多いほうを取ったほうがいいに決まっています」
「その幸せに、おまえ自身は含まれているのか」
「そんなのは私の捉え方次第ですよ。ただ……このままルシェのお手伝いができなくなると思うと、それが少し心残りなのは確かです。私、結構ああいったことをするのが好きですし、ルシェが無理なさらないか心配ですから、どうか信の置ける方をおそばにおいてくださいませ」
目を上げた途端、唇を塞がれた。
押し付けるだけのキスだったが、惜しむようにゆっくりとそれが離れると、私たちは額を突き合わせた。
彼の灰色の睫毛が震えることさえわかる距離に、心臓が耳の横で鳴っているのではないかと思うほどうるさく感じる。
「ソフィ、愛している」
「ルシェ……これからはどうか、敬愛するお兄様としておそばに」
「それはできない」
「……え?」
「奪いに行く。誰が離すか」
「えっ」
話しが違うのでは?
ルシアスは身を起こし長椅子から立ち上がると、高みから私を見下ろした。
「しばらく大人しく映るだろうが、水面下で準備を進める。おまえはそのまま俺を好きでいろ。仕事の補佐はつつがなく。殿下との逢瀬は認めるが、必要以上に触れさせるな。ぬかるなよ」
「ええ!?」
おやすみと告げてルシアスは退室した。
「……な、なぜ私がルシェを好きだという前提で……」