婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした

 (2)

 すっかり秋めいた空気に包まれたその日、私は離れの部屋で、ラインハルトとトーマに本の読み聞かせをしていた。
 このところ読んでいる物語は、動物の国を脅かす悪しき魔王とそれを倒さんとするうさぎの王子の話で、ふたりとも夢中になって対決の行方を見守っている。
 私は人物ごとに声を変えて台詞をあてるという迫真ぶりで読み聞かせをすることに定評があり、時折、身分に関係なく使用人の子供たちも集めて読み聞かせの会を開くことがあった。

「するとそのときだった! 王子アレキサンダーの手にした聖剣が輝きを放ち──」

 次の会でも、今回のような冒険譚を選ぼうかなどと考えながら、目を上げたところで、ふとトーマの様子がおかしいことに気付いた。
 青白い顔をして、目つきが明らかに普段と異なる。

「トーマ? どうしたの、具合が」

 トーマに向かって手を伸ばし、言い切らぬうちに、トーマは嘔吐した。

「トーマ!」

 腹を押さえて蹲るトーマから糞便の匂いが立ち上がる。触れたトーマの体は熱を持って震えていた。泡を食って駆け寄ろうとしたクロエを制し、目の前のことに青ざめるラインハルトを遠ざけた。

「クロエ、ライリー。ふたりともすぐに石鹸でよく手を洗って、うがいを。ライリーはマーサのところで待っていなさい。クロエはトーマの寝巻きとお湯とタオルをすぐに。それから、屋敷内で同じように嘔吐や下痢をしているものがいないか探して。──大丈夫よ、トーマ。私がそばにいるわ」

 部屋の窓を開けて喚起をする。
 しばらく経って戻ったクロエの話によれば、本邸の使用人が昨日あたりから体調を崩しているそうで、今朝方はもうひとりメイドが支度中に嘔吐して、今は発熱と下痢で寝込んでいるという。

 感染性の胃腸炎だ。寒くなる時期になるとこの国でも風邪と同じく流行して、それなりの数の死者を出す。
 私には前の人生で、年の離れた妹が幼稚園や学校から持ち込む胃腸炎によって毎年のように一家全滅に陥った苦い経験があった。看病を買って出る母が率先してウィルスを撒き散らし家族を巻き込んでいくから、受験シーズンなどは自衛のために対処せざるを得なかった。

 医療技術がそこまで発達しているとは言い難いこの世界で、ラインハルトたちがこれに掛かっては大変だからと、屋敷では夏場には生ものの取り扱いにかなり注意して、通年の手洗い、うがいを励行している。これまで使用人とうまくやってきたことが功を奏して、みんなが心配だからと目を潤ませて言えば、彼らはそれを受け入れてくれた。
 現に、他の貴族屋敷と比べてもブラストラーデ侯爵家では体調を崩すものが少ないうえ、下働きのものでも環境が良いと使用人たちの間で話題になることがあるのだと、マーサから自慢げに聞かされたこともある。

 それでも当然毎年ひとりかふたりは流行り病に罹るものがいる。
 仕方のないことだと理解はしていたが、今回は事態が違った。

 夕方にはラインハルトも熱を出し、嘔吐と下痢の症状が出た。駆け付けた医師によれば、昨日今日から一気に同じような症状が街のあちこちで見られるそうで、薬も手も足りなくなりそうだということだった。

 私はすぐに外出先にいたルシアスに繋ぎを付け、義父と母を本邸に戻らぬようにしてほしいと頼んだ。
 知らせを聞いてすぐさま舞い戻ったルシアスに、体調に問題のないティムに用意させた彼の数日分の着替えを渡してもらいながら、私たちは離れの窓ガラス越しに話をした。

「症状のある者は、使用人の家族含め全員離れに隔離して、こちらで落ち着くまで対処することにしました。本邸は今消毒作業をしていますので、二、三日でお戻りになれると思います。お義父様たちにはそのようにお伝えください。この類の病は、感染して数日で症状が出るものですので、ルシェもお義父様もお体に変化あれば、無理せずすぐに医者を」
「わかった。オリヴィア夫人でも文句を言わないだろう宿に連絡をいれてある。聞く限り、症状のあるものはいないということだから、注意しながら数日そこで様子をみるつもりだ。何か、必要なものはあるか?」
「人数が多いので、足りなくなりそうなのは、清潔な布と着替えでしょうか。病人服みたいな脱ぎ着と洗濯がしやすいものがいいです。あとは、リンゴの果実水があればありがたいです」
「用意させよう。おまえがよく言う消毒用のアルコールは?」
「そちらに関してはある程度備蓄があります。それに、この繰り返す嘔吐と下痢の病の元にアルコールは効果がなくて。ルシェ、“さらし粉”っておわかりになりますか? 布を漂白する薬」
「ああ」
「汚れたものはあれを薄めた水で消毒します。金属は腐食してしまうので、消毒した後の水拭きが必要ですし、薄めたとして漂白剤ですから高価な衣類はダメになってしまうことも多いですが、背に腹は代えられません。あ、あと、肌には使用できませんから素手では触らないように。手がかなり荒れます。工業用で使う防水手袋ありますよね、硬くてごわごわしたものですけど、ああいったものを使って、使ったものは沸騰した鍋で煮て。手指は石鹸でよく洗う」
「手間だな」
「感染して苦しむよりましですよ。三日もすれば状態は落ち着くとはいえ、体力のない子供やお年寄りが掛かると重篤な状況に陥ることがありますから呑気にしていられるものでもありません。運び込んだ中に、ひとりカールのところの乳飲み子がいたので心配で。──ルシェもどうか気を付けて」
「ソフィも」

 ルシアスは窓に手をついた。私もそこに触れて、ガラス越しに薄く伝わるぬくもりに頷き、健闘を祈る。
 この世界においても、感染性胃腸炎には対処療法しかない。
 ラインハルトとトーマも、過去にそれぞれ軽いものならかかったことがある。
 ただ、発症した使用人たちの状況も合わせてみるに、今回のこれは感染力も症状もかなり強力に思えた。舐めてかかれば、屋敷全体が侵され全員が苦しむことになりかねない。発熱、嘔吐、腹痛、下痢に襲われ、体力と水分を奪われ続ける。大人でもつらい思いをするこれを、症状を緩和しながらまだ幼い彼らにに耐えてもらうしかないというのは、心があまりにつらかった。


< 28 / 46 >

この作品をシェア

pagetop