婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
記憶があるのだ。
ソフィアではない私を生きた別な人生の記憶。
加えて、私は、これから私の義兄となるルシアス・ブラストラーデという人物を知っていた。自分で言って自分がバカげているとしか思えなかったが、彼は小説の中の登場人物だった。
張りのある艶やかな銀の髪に青灰の瞳、だれもが目を見張る美貌ながら冷徹で知略に長けた「氷の貴公子・ルシアス」は、物語の中で、可憐で愛らしく純真な令嬢リリーナと出会い、恋に落ちる。
けれど、彼女の優しさに触れるにつれ深く抱く愛はルシアスの一方的な想いに過ぎず、彼はそのストーリーにおける当て馬どころか、主人公たちを引き裂こうとする悪役だった。
主人公・リリーナは、この国の王子であるグレッグだかフレデリックだか──とにかく金髪碧眼の王子様との恋を重ね、魔王のようなルシアスの恐ろしい謀略に屈することなく真実の愛を貫いて、困難を乗り越えたふたりは手と手を取り合って国外に逃げ出す。
身分や肩書などいらないとばかりに希望を胸に抱いて終わりは描かれ、王子を陥れようとしたルシアスは糾弾され、恋焦がれたリリーナを手に入れることもできず無様に終わるというキャラクターだった。
私にとって、これは別に好きで読んだ小説というわけではなく、この小説の表紙を飾ったイラストを私の妹が手掛けたから、デビューおめでとうの気持ちで買って読んだものだった。
手掛けた作品ゆえ、妹自身はこれを絶賛していたが、もっぱら読書と言えばホラーとかミステリー小説だった三十路過ぎの私の感想としては、なるほど近頃はこういう手軽な感覚で読めるライト小説があるのか、というくらいで、ネットのレビューに『表紙買いです。ラストの怒涛の展開で追い込まれていくルシアスがいい気味だなと思いました。イラスト素敵でした』などと書いたことを覚えている。
それで、だ。
重要なのはここからで、ストーリーの中でルシアスの手先となってリリーナに散々ひどい仕打ちを働き、当のルシアスにはあっさり切られ、山小屋の中で燃えて死ぬキャラクターがひとりいた。なかなかどうして無残だなと感じたものの、一度だけ読んだ小説の登場人物、しかも西洋風の名前を脇役まで完璧に覚えていられるわけもない。だが、その哀れな端役キャラクターの位置づけを、幸運にも私は覚えていた。
義妹だ。
夜のような暗い髪の奥から、嫉妬深く陰鬱なまなざしを眩いリリーナに向けていたその女は、ルシアスの義理の妹だったはず。
──それって、私じゃん?!
瞬間、私は理解した。
正直、前の人生も途中から記憶が曖昧でどういう最期を迎えたのかもわからないけれど、私にはこの世界とは異なる前世とも呼べる記憶がある。その認識ははっきりしている。そして、あまりに多くのことが符合することから、ここがあの小説の中の世界だということにも確信があった。
ならば、私は、このままいくと冷酷な義兄に支配された挙句、十六だか十七だかの、短い人生で終幕を迎えることになるということだ。しかも焼死。
待て待て、……何もかも哀れ過ぎるだろ。
ゆえに、決意した。
さすがにもう少しまともな人生に歩みたい。このまま流れに身を任し、小説のストーリー通りに業火に焼かれて退場するなんて納得がいかない。前世の記憶(笑)というアドバンテージがあるのなら、できる限りのことをして難を逃れ、それなりに幸福であったと振り返る最期であるべきだ。
手始めに、私は、損な役を任されたと思っているであろう侍女を前に、ぎこちなくけれども心からの気持ちを込めて口にした。普段ほとんどしゃべらないから舌が回らない。
「あ、──あり、がとう。あなたの手、とても、あ、あたたかくて……気持ちよかった」
侍女は驚いたように固まった。当然だ。それまでのソフィアは、とても貴族令嬢とは思えないほど無口で陰気で愚かで、いつも何かに怯え、身の回りの世話をする侍女たちに感謝の気持ちなど伝えたこともなかったのだから。
「わ、私、こうして目が覚めて。もっと、生きていることに感謝しなくちゃって気づいたの。だから、ありがとう。いままで、ひとつも伝えられずにごめんなさい」
「お嬢様……!」
侍女はその時になって初めて、痩せこけた哀れな子供を見つけたような気がしたに違いない。
はいはい、そうです、あなたの目の前にいる私は可哀想でいたいけな子供ですよ。
そう遠くない日に、母と私は、再婚が決まるまでと宛がわれていたグランドン伯爵家が所有するこの屋敷を出て、ブラストラーデ侯爵家に入る。その際、ここにいる何人かの使用人を連れていくことになっていた。
私に関心のない母と、同じく関心のない侯爵閣下、そしていずれ魔王として私を虐げるであろう義兄、そんな状況において、だれかしら私個人の味方を作っておくに越したことはない。
ソフィアは九歳でも中身の私の意識は三十路を過ぎた大人だった。人間、持つべきものは金とコネ。金はないからコネを作るしか生き残る道はない。
打算にまみれた私の使用人懐柔作戦は、こうして始まったのである。