婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
(4)
ようやく外出が叶って、その日、私はフィリップに連れられ、ルシアスのいる仮設療養所を訪れた。
この地区は他に先駆けて回復も早く、後続の発症者も極めて少なかったのだと聞く。
数日遅れてこれと似た療養施設が各地区に設けられ、いち早く騎士団が動いて助力にあたり、対処の方法や手洗い方法の励行などと共に石鹸を広く市民に配布したそうだ。
騎士団を動かしたのは彼らに顔が効いたルシアスの貢献が大きく、時折屋敷に知らせを届けに来ていたロバートは、ルシアスがどれほど献身的にこの事態を収めようと動いているかを興奮しながら教えてくれていた。
「──ルシアス!」
シャツの袖をまくり、薄汚れたジレを着たルシアスは、銀の髪が乱れるのも気にせず市民に混じって忙しなく働いていた。呼び名に顔を上げた彼は、駆け寄る私を一目見るや驚いたようにその青灰の目を瞠る。
「ソフィ」
「ルシェ!」
思わず感極まって胸に飛び込んだ私をルシアスは腕で包み、私の頭に頬を寄せた。
「ソフィ、ああソフィ、待ってくれ、抱きしめられない。手が汚れているんだ」
「活躍をお聞きしました。ご無事で……よかった」
「おまえも頑張ったな。ロバートからすべて聞いた。ラインハルトもみな回復したと」
「はい。もうすっかり元気です」
「そうか。おまえは、少し痩せたか。体調は?」
「問題ありません。私も元気ですよ、ルシェ」
ルシアスはそこでフィリップの存在に気付いて顔を上げた。振り返った先にいたフィリップは「あー……離れてくれる?」と言い、はたと気づいて私は慌ててルシアスから距離を取った。
「殿下、改めてこの度の御助力、心より感謝申し上げます。お力添えあって、この地区は収束の兆しが見えた。他の地区も落ち着きを取り戻しつつあると聞き及んでおります」
「フィル。私からも心からの感謝を。本当にありがとうございました」
深く頭を下げれば、フィリップは私の肩を軽く叩いて顔を上げるよう促した。
「礼を言うのはこちらのほうだよ。ルシアス、ソフィ。君たちの働きのおかげで事態の収束は極めて早かった。王政府としても、ブラストラーデの若き次期当主の適確であり迅速な判断と行動力には、驚かされると共に惜しみない賞賛を示している」
「すべてソフィアなくしてはままならなかったこと。俺は侯爵家としての義務を果たしたまでのことです」
「まるで貴族の鑑だね」
「……とはいえ、リターンを期待しなかったわけではない」
「無論だ。かなりの額を出させてしまったと思うが、それについては国として補填させてもらうつもりで準備する。それから、君が望むのであれば褒賞も。でも勲章なんているかい?」
「勲章は不要だが、他に欲しいものがある。後日交渉させていただきたい」
ルシアスの言葉にフィリップは「わかった」と返すと、私に向き直った。その凛とした顔つきは、“ただのフィル”ではなく、この国の民を思う王子としてのものだ。
「対策室にいる医師の話だと、症状がおさまってからもまだしばらくは病の原因になるものが体に残りつづけるらしいね」
「ええ、私もそう聞いたことがあります。長くてひと月ほどは糞便に混じって排出されるそうですので、下水処理と街の清掃には注意が必要になるかと。王都も端のほうは下水設備の敷設は十分とは言えませんし」
「なるほど。となると、当分は忙しそうだ。手洗いの励行は、冬場の強い感冒の流行も踏まえてこの先も続けよう。ああ、それから君たちから聞いた通り、感染源は広場の屋台で出された海産物のようだ。そこで集団感染が起きて、何人か街にある湧水路で直接吐しゃ物を洗い流したものがいたらしい。あれは生活用水でもあるから、それで一気に感染が広がった」
「そうでしたか……」
フィリップは、屋台には衛生指導が入り営業停止の処分が下された他、湧水路はすでに清掃が入ったと教えてくれた。フィリップ自身もこの件ではかなり忙しく動いてくれていたのだとわかる。
「今回の件、僕大活躍で、おばあ様にも褒められたんだよ」などと彼は笑っていたが、返す返すも頭が下がる思いだ。
「あぁっ! ソフィアお嬢様ァ!」
「ロバート!」
そこで通りがかったロバートに声を掛けられた。
「お……おじょうさまぁ……」
「頑張ったわね、ロバート。ありがとう」
「おじょうさまぁ……」
この二週間弱は彼にとって相当過酷だったのだろう。感極まった彼の涙に私たちはほっとした気持ちに包まれつつ、それからやっと帰宅の準備に取り掛かった。
*
ルシアスの手はすっかりと荒れていた。
屋敷に帰宅して以来、ラインハルトはルシアスの側を離れようとせず、今日はお兄様と寝るのだと言い張って、大きな手に頭を撫でられるうち、兄の膝にすがりついたまま長椅子で眠り込んでしまった。
私は小さな弟の上に羽織っていた毛織物のカーディガンをかけると、ルシアスの隣に腰を下ろして、手を出した。
「よかったら、その手にクリームを塗らせてくださいませ」
すんなり差し出された無骨な手はカサついて皮がめくれ、あかぎれができて、見る限りところどころ火傷の痕もある。熱湯が掛かった痕だろう。
「……慣れんことをした」
「そのようですね。ロバートから聞きましたが、個室を用意しろと騒ぐ貴族を一喝して黙らせたとか」
「何を勘違いしたのかアネトン伯爵の馬鹿息子が三人揃っていてな、身分がどうだのやかましかったから、奴らより身分が上の俺が直々に対応してやっただけだ。せいぜい貴族らしく糞を垂れ流さんようにして寝ておけと」
「あははっ」
使用人たちから分けてもらった手荒れ用のクリームを、ルシアスの手に満遍なく塗り込んでいく。そうしながら、私は思わず口にしてしまった。
「どうして急に、このようなことを……」
「貴族の義務だ」
「もちろん、ルシェが以前から大変できた方とは存じておりましたが」
「含みのある言い方だな」
ルシアスは私を見つめると、ふと力を抜いて笑った。
「大げさとおおせのオリヴィア夫人を、父と共にホテルに送り届けて、俺は俺で別な場所に宿を取ろうと思って外に出た。父もすぐに街の異変には気づいたようだったが、俺が見る限り、普段とはあまりにかけ離れていた。──酷い臭いがしてな。路地を覗いてみたところ、吐しゃ物を喉に詰まらせたのか、そのまま冷たくなっていた男がいた」
「そんな……」
「これは想像もしていないことになっているのではと、ロバートと共に街を見て回ったんだ。ほんの数時間で診療所に人が入りきれなくなって、大の大人や幼子が苦しんで地面でのたうつという光景には、なかなか肝が冷えた。屋敷の中でおまえもこの光景を見ておきながら、ひとり奮闘しているのかと思うと、俺も何かせずにはいられなかった。当然、打算もあったが」
「打算?」
「うまく行けば顔と名前が売れて、欲しいものも手に入る。さらし粉なら事業を通して手に入るし、この状況がもし続くのであれば売り買いに手を出し、医療事業へ進出することも考えた。医療者用の手袋を開発するのもいい。もっと薄く、伸縮性が良くて指先の扱いがしやすいものにすれば医者は欲しいと言っていたからな。教会の能無しどもは、手伝いをして祈りとやらを捧げるだけで無辜の市民から信仰を得られるものだから、俺に大層感謝していた。得たものは多い」
転んでもただは起きぬというわけだ。
「そのルシェの欲しいものというのは何なんですか? フィルにも言っていましたが」
「ソフィに決まっているだろう」
「は、え……」
思わず手を止めてルシアスを見上げると、彼は私の手を取り返して握り込んだ。
「褒賞として直接望むものは違うが、いずれせよすべてはおまえを手に入れるための布石だ。水面下で準備を進めると言ったはずだが?」
「……ひぇ」
「間の抜けた鳴き声だ。愛おしい」
ルシアスは私の肩を抱いてぐっと引き寄せると、頭に頬を擦り寄せた。
「ル、ルシェ……」
「これも褒美として許してくれ。眠い」
いくらもしないうちにずしりと寄りかかってきた体重に、本当に眠ってしまったらしいと気づく。反対側にはルシアスの腿に頭を乗せたまま静かな寝息を立てるラインハルトがいて、私はどうにも、身動きが取れなくなった。