婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした

幕間2 ロバート曰く


<幕間2> ロバート曰く


 ルシアス様は一体何をお考えなのか──。

 木箱に収められた重たい布を運び終え、ロバートは忙しなく人々が行きかい、呻き声が耳を掠める療養所を振り返った。
 教会とその前の広場に騎士団を動員して仮設のテントをずらりと並べ、これを療養所と呼んで、男女の別と病状の程度によって整然と区域を分けている。話を聞きつけ他の地区から荷車に乗せられて運ばれて来る者もいるとかで、受付は常に人だかりがあり、消毒用のさらし粉のつんとした臭いが鼻腔を刺激した。
 ロバートは戦地の経験はなかったが、こういった光景を“さながら戦場のようだ”と称するのだろうと思う。

 知らぬ間に、街では恐ろしいことが広まっていた。
 伝染する嘔吐病だ。ロバートも子供の頃に家族全員が罹ったことがあり、熱が出て腹痛を起こし、上からも下からも苦痛に呻いて、水すら口に出来なくなる酷いありさまだった。
 いま街に蔓延るものは伝染する力がかつてないほど強力だそうで、たった数日のうちに病に罹った者で街は溢れかえり、医者も何も手が足りていないのは誰の目にも明白だった。

 ロバートの勤める屋敷では、ソフィアお嬢様が年がら年中外から戻ったら手を洗えとか、うがいをしろとか、夏場は酒場でなまものを食うなと言って、ロバートの主人である次期侯爵も必ずソフィアの言う通りにせよとお触れを出す。
 日ごろから何となくの習慣になっていたことだったが、療養所では、普段の屋敷以上に衛生が徹底された。

 どこに出入りするにも口布を巻き、それを定期的に取り換えて、汚物は素手で触れてはならず何かをした後には必ず石鹸で丁寧に手洗いをする。おかげで手がガサガサに荒れていた。着ていた服は鍋で煮て、一日の終わりには必ず風呂に入るよう指示を受けた。

 それらの指示はすべてロバートの主人であるルシアスから下されるものだ。
 何せロバートに指示していることはルシアス自身も行っているのだから、従者であるロバートが怠るなど決して許されない。

 ロバートは元々ブラストラーデ侯爵の屋敷に出入りする下男の息子だった。
 五人兄弟の末子で父について手伝いをするうち、屋敷の庭先で小侯爵であるルシアスが、年配の師に指導を受けながら剣の稽古をしているのを何度か見かけていた。自分よりも幼い彼が、厳しいことを言われても泣き言ひとつ言わずに稽古に打ち込む姿は目を惹いて、ロバートも落ちていた棒切れを片手に見様見真似で振り回し、父の仕事が終わるのを待って過ごした。

 いつも茂みの奥からルシアスの剣術の稽古を盗み見ていたロバートは、ある時それを使用人に見とがめられてこっぴどく叱られた。
 しばらくは屋敷に出向くこともできず、家の中で鬱屈して過ごしたが、頃合いを見てまた父の手伝いについていった。

 すると、ロバートには思っても見なかったことが起きた。
 その日もこっそり茂みを覗くと、それまでと同じようにルシアスは剣の稽古に励んでいた。
 侯爵様というのは、頭もよくて剣術も磨かなくてはなれぬものらしい。ロバートの家は兄弟が多くて貧しかったが、その分賑やかで馬鹿で鼻を垂らしていても元気であれば許される。
 小侯爵様は身綺麗で、きっといい物を食べられるのだろうが、いつ見かけても、ひとりきりだった。
 師がいなくなっても黙々とひとりで稽古を続けるルシアスを真剣に見つめ、手元の棒切れを振るっていると、ふとルシアスが木剣を手にロバートの潜んでいた茂みに歩み寄った。

 「やる。棒切れでは感覚がわからないだろ」

 気付かれていた。

 「おまえ、こっちへ来い。打ち込んでみろ」

 散々に伸され、ロバートは、その日その瞬間からルシアスを主とすることを決めた。
 剣の稽古を重ね、体を鍛えて、ルシアスが文字も読めんのかと言うので、庶民にも読み書きを教えてくれる教会に毎日のように通った。その甲斐あって、侯爵屋敷の下男として雇用され、すぐにルシアスの従僕となった。ルシアスが読み終わったからと渡してくる学校のテキストはロバートには難解過ぎたが、必死に勉強して従僕のまま騎士団にもついていった。おかげで騎士爵を得るに至ったロバートは、老いてきた両親を食わせてやることができている。
 近頃では、妹君のソフィアに指導を受けながらルシアスの執務も手伝っていた。──このソフィアからあれこれ教えられている時、うっかり近寄り過ぎたり、彼女につられて気さくになりすぎたりすると、ルシアスにぞっとするような視線で睨まれるので気をつけなくてはならないのだが。細かい作業は苦手だったものの、それでも、ルシアスの役に立てるのならばと必死で食らいついた。

 ルシアスのためならば、どこまでもついていく。
 ロバートは常にその覚悟であったが、恐ろしい病が街を襲うという未曾有の事態の中、ルシアスがまさかその渦中に身を投じるとは思いもしなかった。

 ルシアスは街の惨状を目にした途端、そのロバートなど欠片も及びもしない明晰な頭脳と先見の明で一体何を考えたのか、たちまち診療所の医師が動きやすいよう先導し、教会や騎士団に話を付けてしまったのだ。
 金に糸目を付けず人手を雇って物資を集め、自らも平民たちに交じり、身を粉にして動くことをひとつも厭わない。

 滅多に笑わず氷の貴公子などと影ながら恐れられていても、やはりルシアス様はお優しいのだ。あの日、おれに木剣をくださった頃からお変わりなくお優しい。ロバートは胸を張った。
 ロバートの懸念は、ルシアスが無理をして倒れることだった。
 ソフィアからもくれぐれも無理をしないよう見ておいてほしいと言われている。
 そんなことを言われても、ルシアス様が無理をなさるのは、きっとソフィアお嬢様のためだろうに──とロバートは思う。

 屋敷ではルシアスと同じようなことをソフィアが主導している。
 ソフィアが懸命に動いているから、ルシアスもここで同じように動こうとするのだ。まるでそうしないと彼女に顔向けができないと言わんばかりに。

 ──まったく、お似合いのおふたりだというのに、義兄妹とは神様も意地悪なことをなさる。

 ルシアスが義妹のソフィアに妹以上の想いを寄せていることは、そばで見ているロバートには何となくわかっていた。
 ソフィアのおかげで、ルシアスはいつもひとりではなくなったのだ。
 ソフィアとて、ルシアスをずっと気にかけている。彼女がルシアスを義兄以上に感じているという確信はなかったが、ルシアスほどの男に一途な気持ちを向けられて悪くは思うまい。きっと。たぶん。

 だが、ふたりが兄妹である以上、ままならない関係であるのは明白で、そのうえソフィアにはなんということか、おとぎ話のように王子様が迎えに来てしまった。しかもこの王子様はロバートからしてもかなり人がいいから困った。
 悔しいが、おそらく十人に聞いて百人ほどが、ルシアスよりフィリップ王子を優しくていい人だと言うだろう。
 ロバートの主人の優しさは、不器用であってわかりにくいのだ。

 ああ一体これからどうなるのだろう。
 ソフィアのことで荒れ狂うルシアスを目の当たりにするのは恐ろしい。さながら魔王のようなのだ。さすがのおれも命は惜しいからお暇をもらうことになるかも──いつしか上の空で作業を続けながら額を流れる汗を拭い、ロバートが顔を上げたときのことだった。


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