婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした

 突如真後ろから聞こえた女性の声に、およそ貴族令嬢とは思えぬ叫び方をしてしまった。跳ね上がる心臓と共に驚いて振り返れば、使い込んだ農作業用の帽子を被り、手袋を嵌めた片腕に鉄バサミと雑草の籠を抱えた年配の女性が長椅子の後ろに立っている。

「ああ、びっくりさせちまってごめんよ。この裏で仕事してたらちょうど出られなくなっちまってさァ。ああ、あたし、耳が遠いから話は聞こえてないよ。安心しな」

 日に焼けた肌でにぃと笑って、彼女は深い笑い皺の刻まれた目元を細める。

「アンタ、噂のソフィさんだろ?」
「ご、ご存知でしたか……でしたよね」
「そらね」

 女性は地面に籠を置くと、よっこいしょと長椅子の背もたれに体をもたれた。見たところ六十過ぎといったところか、ここまでチャキチャキの豪快系オバチャンは市井に見ても王城にいるのは珍しい。見たところ庭木の世話をしていたようだ。うちにいる庭師のジョンソンも人がいいから気が合うことだろう。

「そういや侯爵家のお嬢さんなんだったねえ。元々こういう性格なんだが、気安くしちゃマズイかい?」
「いいえ、どうぞそのままで。気が楽です」
「そうかい。じゃ、遠慮なく。あたしのことはエイミーとでも呼んどくれ。実はね、アンタと一度でいいから話してみたくてウズウズしてたんだよぉ。ちょうど人払いされてて誰もいないし、話好きのババアに付き合っとくれ。ああもちろん堅苦しいことはなしだ。この通りねえ!」

 エイミーは長椅子の縁を手のひらで豪快に叩いてみせた。驚きはしたが、気風がいいとはこのことだと感じ、私は先ほどまで心を占めていた戸惑いを忘れて、
「良かったらお掛けになりませんか」
 と、彼女に隣を促した。

「疎くていけないのですけど、お茶を頂いてもいいと思います?」
「いいさいいさ、わかりゃしないよ。淹れてくれるのかい?」
「ええもちろん。出るに出られずじっとされていたのでは、体も冷えたでしょうし」

 あらま優しいねぇと笑うエイミーに、私はテーブルに用意されていたティーセットを借りて紅茶を蒸らす。

「で、王子様のことは好きじゃないのかい?」
「ストレートにお聞きになりますね」
「まどろっこしいことは嫌いだよ」
「なら私も即答しますが、好きですよ。彼のことはとても。いい人で、誠実で、一緒にいるととても楽しいです。あんな人、この先の人生で他に出会うことなんてないと思います」
「やだねぇ、聞いてるこっちが熱くなっちまうじゃないか」

 カップに紅茶を注ぎ、ソーサーに乗せてエイミーに渡すと、私はまた彼女の隣に腰を下ろした。

「……友人だったんです。失礼ながらお立場を知らぬまま親しくなって。家のことを思えば、殿下をせっついてでも両陛下に取り成していただけるように私も動かなくてはならないのに、どうも煮え切らずにいる自分が申し訳なく。殿下もそういう私に焦れていらっしゃるのでしょう」
「みんながみんな諸手を挙げて大歓迎ってわけじゃないんだろ? 躊躇いだってあって当然さ。結婚してくれって向こうが迫って来てんだ。女というだけで肩身の狭い世の中だ。真に伴侶になろうってンなら、身を立てるなり、力をつけるなりして、周りを黙らせてからアンタを迎えに行くのが筋ってもんだろ。お互い背負ってるもんがあるんだから、それを放って駆け落ちしよーなんて無責任なこと、ンな簡単に言うモンじゃないんだよ」
「やっぱりしっかり聞いてましたよね」
「どーも最近耳が遠くていけないねえ」

 雑な惚け方に苦笑すると、エイミーは毛羽立った作業帽の奥の青い目で私をそっと窺った。

「アンタが煮え切らないのは、相手の問題じゃなく、心の中に捨て置けない誰かがいるからだろう」

 捨て置けない誰か。

「その誰かが、どんな立場のどこのお人なのかなんて野暮なことは聞かないよ。ただ──アンタからすれば、どんな人なんだい?」

 見透かすような彼女の瞳の前には不思議と逆らえない気がしたが、同時に優しくもあって嫌な気持ちではない。
 私は視線を巡らせ、言葉を探してみたものの、エイミーに相手にまどろっこしいことを言うのはやめにした。

「魔王みたいな」

 途端エイミーはアーッハッハ! と豪快な笑い声を上げた。

「魔王と来たか、ああこれはこれは、麗しきお嬢さんがおっかないのに引っかかったもんだ! 優しい王子様とは正反対かい?」
「魔王は魔王でも極悪非道な悪鬼羅刹というわけではなくて、まとう雰囲気がちょっと怖いというのか、何をどうしたところで私は絶対に適わないというか……優しい王子様のほうがいいに決まっているのに、魔王の手から逃げる気がないなんておかしいですね……」
「それだけアンタを惹き付けてやまない魅力があるってことだろう。そうかい、アンタは魔王を放っておけないか」
「時々、危うく感じるので……無理をしないか心配です」
「まぁ、魔王であろうと、ひとりぽっちじゃ王にはなれないからね。民がいて、支えてくれる誰かがいなくちゃ、ただの寂しい人さ」

 目を見張ると、彼女は紅茶を飲みながらそっと笑って「こりゃ、孫の恋路をじゃましちまったかねえ」と言った。

 ──孫……?

 ふと、いつだったか、帰宅の遅かったフィリップがおばあ様から、どこほっつき歩いてんだ放蕩孫と豪快に叱り飛ばされた話を思い出した。あれが誇張でなかったとすれば。
 私はすぐさま長椅子を降りると、膝をつき彼女に向かって深々頭を下げた。

「リカルド・ブラストラーデの娘、ソフィアと申します。畏れ多くも陛下と存じ上げず、数々の無礼を申しました、この通り非礼をお詫び申し上げ、な、何卒ご容赦を……」
「何言ってんだい。気づかれちまったもんは仕方がないが、すっかり退位したあたしはもうただのエイミーばあさんさ。堅苦しいことはなしだと言ったのはあたしなんだ、ご容赦するも何も無い。騙したみたいで悪かったね、フィルから聞いてどうにも話をしてみたかったんだよ」
「陛下」
「まぁ、あの子が惚れるのもわかるような気がするねぇ。美人なうえに気立てもよくて、気取ったところが少しもない。いい子だ。十七という話だったが、妙に落ち着いているというか、気持ちが若くないように感じるのは何故だろうね」
「き、恐悦至極に存じます……」

 なぜ先王エイミア陛下が野良着で庭仕事をしているのか。
 そこでようやくのほほんとやってきたフィリップからの使いも、彼女を目にして飛び上がるほどぎょっとし、泡を食って駆け寄ってきた。

「エッ、エイミア様! またそのようなお姿で!」
「おや、うるさいのに見つかっちまったね」

 エイミアはうんざりした顔を従者に向けると、立ち上がった私にフィリップと同じ碧い目を見せた。

「ソフィア、よくお聞き。どんな結果になったとしても、誰かに人生の選択を委ねてはならない。何を背負ってどう生きるのか、最後に決めるのはあなたであるべきよ」
「──謹んで御言葉を賜わります、陛下」

 ドレスの裾を手に礼を取り、頭を垂れるうち、エイミアは床に置いていた籠を手に、「お茶をありがとうねぇ、ソフィ」とあっという間にすたこらと走り去った。元気な方だ。

 ──何を背負って、どう生きるのか、私が決める。
 前世では当然の考え方を、いつしかすっかり忘れていた。


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