婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
(3)
ルシアスはもう三日も目を覚まさず、昏々と眠り続けている。
すぐに処置が施され、医者の話ではひどい打撲が見られるものの幸いにも骨折はなく、出血の割に頭部の傷も浅かったということだったが、医療技術が発達しているとは言い難いこの世界では少しの予断も許さない。
私にとっては転生した時空の異なる世界なんてファンタジーそのものなのだから、どうせなら魔法のひとつもあればよかったのにと、昨日の夜半から熱が出始めたルシアスの水枕を替えながら思う。
あの時、リリーナは私が人をかき分け駆け寄ると同時にすぐに気が付き、下敷きになったルシアスに悲鳴を上げた。
そうして彼女は瑠璃色の瞳からたちまち涙を溢れさせ、叫んだのだ。
『あぁ、そんな! ルシアス様、わたくしをかばって!』
まさに身を呈してローワン家の令嬢を助けたルシアスには、居合わせた人々から称賛と見舞いが届き続けている。感染症騒動の際、街で療養所を築いた彼の活動を知る人も多く、ブラストラーデの次期侯爵の慈愛と献身は瞬く間に広まった。
昨日になって屋敷の訪問を許されたローワン夫妻は、侯爵夫妻にあらゆる謝罪と義娘を救ってくれた礼を告げ、家門としてこの恩義に必ずや報い、差し出せるものならばすべてを差し出す覚悟であると額づく勢いで伝えると、夢見心地のリリーナを引きずって帰って行った。
母はさしてこの事態に興味もなさそうだったが、義父は彼らが帰った後に私を呼び止め、
『ルシアスがあの娘を庇ったというのは本当なのか?』
と尋ねた。
すでに耳聡い義父の元には噂が届いていたのだろう。
ローワン老伯と若きルシアスは最近個人的に繋がった間柄だ。
それもあって、愛らしいリリーナ嬢と氷の貴公子ルシアスは好い仲で、だからこそ彼女を助けたのだろうと訳知り顔で話す者もいたのだ。
『咄嗟に手を引いて助けようとしたのは私も目にしております。ただ、お兄様が伯爵様と接点を持ったのは個人的な考えあってのことのようで、リリーナ嬢に関しては──』
『その個人的な考えとは、おまえも知らんのか』
『ええ、時期がくれば話すとだけ』
『そうか。娘のことはいい。あれは私と同じで馬鹿を好かんからな、何らかローワン翁を利用するつもりで近づいたのはわかる。……とはいえ、近頃のルシアスには驚かされることばかりだ』
ストレートな物言いはルシアスそっくりだったが、噂を一蹴したのは義父と見舞いに訪れたウィリアムくらいで、使用人の中にすらロマンス小説のようだと胸をときめかせる者もいるようだった。
「……ルシェ、ルシェは優しいのですね。なのに、私ときたら──」
眠るルシアスの傍らにひとり腰を下ろし、私は彼の右手を両手で包む。
どうしてこんなにも胸がざわめくのだろう。
ルシアスは人として当然のことをしたのだ。目の前で転落せんとする女性がいたら、私でも手を伸ばす。
倒れたルシアスにしがみついて泣くリリーナが脳裏に焼き付いて離れなかった。彼女を退けるより先に、私は医師を呼んで欲しいとローワン家の執事に向かって声を上げ、近くにいた人にラインハルトを託し、「頭を打っているから揺らさないで」とリリーナの手を掴んだ。
冷静ぶって。
本当は、ルシアスに触れて欲しくなかっただけだ。
本当は、自分を庇ったのだと声高に叫んで欲しくなかっただけだ。
彼女の叫びが真実になってしまうのが怖かった。
ルシアスとリリーナが近づいていくのが嫌だった。
取り繕っていた妹の顔をかなぐり捨て、心で醜く嫉妬した。
「……ソフィ」
指先がぴくりと動き、はっとして顔を上げると薄く開かれた青灰色の瞳が私を見つめていた。
「ルシェ! ルシアス、あぁ……よかった!」
胸に広がった安堵に視界が滲む。ぽろ、とひとつ涙がこぼれると止めどなく溢れだして、私はルシアスの手を抱いたままその手の甲に頬を擦り寄せた。
「よかった……ルシェ」
「ソフィ……俺は……どのくらい、眠っていた」
「三日です。三日も、目を覚まさなくて……どれほど、心配したか」
すまなかった、と掠れた声で言って、ルシアスは指先で私の涙を拭った。
「そう泣くな……おまえに泣かれるのはつらい」
「ルシェ、何が起きたか覚えていますか」
問えばルシアスの瞳はゆっくりと動いて天井をぼんやり眺める。そして小さく「カフス」と呟いた。
「カフス?」
「階段で……腕を払おうとした時、あの女にカフスを取られた……取り返そうとして、握りこんだまま離さんから」
「それで落ちたんですか?」
ルシアスの右袖のカフスボタンが無くなっていたのは確かだ。留め具をひねって固定するタイプのものだったから、転落の衝撃でどこかに飛んで無くしたのだろうと思っていた。けれど、リリーナが掴んだままになっていたのかもしれない。
「そんなことで!」
「大切なものだ」
「死ぬかもしれなかったのに!」
「俺は途中で手すりを掴もうとした。あの女がカフスどころか俺まで離さなかったのが悪い」
「でもルシェは……リリーナ嬢を庇って、下敷きになって……」
「知らん、不本意ながら結果としてそうなったんだろう」
カフスはあったのかと問われ、ないと返すと舌打ちが聞こえた。
ウィリアムは、ルシアスは人間の血が通っていないから、どうでもいい相手が階段から落ちようと眺めはしても助けはしないよなどと評していた。それはちょっと私も思うところがあって、だからこそリリーナはどうでもいい相手ではないのかもしれないと──しかし、ルシアスはやはり魔王だった。
酷すぎる。
こんなに酷い人なのに。
思わず笑って、また涙がこぼれた。
「ねえルシェ、私、ルシェが好きです。カフスを取り返そうとしただけなんて、こんな、とんでもない人でなしの、傲慢なお兄様なのに。ルシェが好きでたまらない。この先どんな結末になって、私が誰のもとに嫁いだとしても、私は──あなただけを、心から想っています」
「ソフィ」
「気づきました。ルシェのこと誰にもとられたくない」
起き上がろうするルシアスを支え、彼の揺れる青灰の目と視線があうと、ルシアスはやおら私の頭を抱き込んで口付けた。
乾いた唇が触れては離れて、存在を確かめるように何度もキスを交わす。
「ソフィ、愛している」
「私も。お慕いしております、ルシェ」
頬を撫でるルシアスの瞳が滲んで見えるのは、きっと私の視界が涙に濡れているせいだ。
「よく聞けソフィア、俺はこの家を出る」
「……え?」
唐突な宣言に目を見張ると、ルシアスはしっかりした眼差しで力強く私を見据えた。
「王室より褒賞として爵位を得た。俺はブラストラーデを出て、子爵として新たな家名を持つ。おまえを妻として迎え入れるぞ」
「子爵……」
「他の誰に嫁がせるものか、おまえは永劫俺のものだ。いい知らせがあると言っただろう? 元々一代限りの騎士爵はあったが、先日の感染症騒動の貢献が認められた。おまえに上がる縁談を片っ端から潰すために、俺は結構な数の貴族絡みの不正の事実をつかんでいてな。爵位を強請るのに席が空いていた方がいいかと思って、駄賃とばかりにそれらの調査書もくれてやった」
「もしかして、ローワン伯爵の詐欺事件の件も」
「ああ、ちょうどな。小さいが、以前から目をつけていた土地を治める権利も安く得た。これがローワン伯爵家の領地に接している。伯爵の領地には、ブラストラーデが出資している鉄道が走る予定になっていて、俺としてはそこに駅をひとつ設けたいと考えていた。何故なら、近くに銀山があって採掘した銀や加工品といった荷の積み下ろしに便利だし、人も金も集まるうえ、俺もその銀山の採掘権を個人として持っている。ローワン伯と懇意にしておいて損は無い、恩は申し分なく売って諸々の話はすでに付けてある。こんなことになるとは思ってもみなかったが、今回の件で老伯はなおさら俺に全てを託してくれることだろう」
「なんと……ルシェの計画って」
「これだ。おまえにドレスのひとつも買ってやれんような甲斐性なしになりたくないからな、稼ぎのめどならつけてある」
用意周到。聞けば、ルシアスは功績を積んで爵位を得るために、手堅く騎士団に入ることを考えたのだといった。
「そんな前から準備を……?」
「ああ、殿下の件があって急ぎ仕事になったが、天運は俺にあったようだな」
「……ルシェ」
「強引にでも攫うつもりだったが、ははっ、おまえの気持ちまで手に入った」
ルシアスは私をきつく抱きしめて、頬を擦り寄せ笑った。
「いずれにせよフィリップとの縁談にケリをつけ、父から必ず許しを得る。交渉の材料ならばいくつか用意はあるんだ。あれが楽隠居するには早すぎるうえ、俺の弟は姉様のおかげでとても賢くて優秀だからな。ブラストラーデとして大きな問題ない。世の中がなんと言おうと、父さえ攻略すれば、おまえは俺の妻だ」
「……あの、フィルに、彼にはまず私から伝えても構いませんか」
「大丈夫か?」
「はい。ただ流されて待つのはやめにします。私の人生のことですから、自分で決めて、彼にも誠実でありたいです」
「わかった」
ああ、とルシアスは感嘆を噛み締める。
「最高の気分だ。そして頭も体もひどく痛い……最悪だ」
「そ、そうだった、すぐにお医者様を呼んできますから! まずはよくお休みになって」
「キスしよう、ソフィ」
「ダメ! 横になってください!」