婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
*
「──……フィ、ソフィ! 僕がわかるか、しっかりしろ、ソフィア!」
目が覚めると、薄暗い中にぼんやりと照らされた顔があった。
「……フィ、ル?」
フィリップだ。
なぜフィリップが──
「ソフィ! よかった、気が付いたか」
強張った顔で私を覗き込んでいた彼は、名前を呼んだ私に安堵の息を吐くと「大丈夫かい」と身を起こすのを助けてくれた。
コートをかけてくれていたようで、起き上がった拍子に温かなそれが体を滑り落ちていく。鈍い頭痛があり、額を押さえて私は暗いあたりを見渡した。床に寝かされていたらしい。
すでに日が暮れている。そばにカンテラの灯りがあるが、見覚えのない暗い室内は、丸太を組み合わせて作ったどこかの小屋といった雰囲気だった。
染みるような寒さに思わず腕を抱え込んで、自分の手が剥き出しの腕を擦ったことに、私はぎょっとした。
──え?
視線を下げれば、あろうことか下着姿だった。
フィリップが掛けてくれたコートに隠れているが、すり合わせた脚の感覚からして、履いていたはずのブーツもなければ、タイツすら履いていない。
私が身につけているのは、冷えますからとクロエが用意してくれた、厚手だけど色気の欠片もないダサい、パン──
「な、なんで!」
即座私はフィリップのコートを抱え込んだ。
「な、なぁあ……!」
「だ、大丈夫だソフィ、大丈夫だから落ち着いて。僕がここに来た時から、君はその恰好で倒れていて、とりあえずコートを掛けたのだけど、触れてはいないから──いや、起こすのに、か、肩は触れた、ごめん申し訳ない」
「こ、ここ、どこですか」
震える声で尋ねると、フィリップは「エルトの森の中腹あたりにある山小屋だ」と答えた。
「……山小屋?」
広大なエルトの森は、ブラストラーデの別荘がある場所だ。
ということは屋敷からそう遠く離れてはいないとは思うが、山小屋の場所など私は知らない。
「そうだ! 私、誰かに襲われたんです! 薬か何か嗅がされて!」
「襲われた? 怪我は?」
「たぶん、平気です……どこも痛くありませんし」
「乱暴、されたわけでもなさそうかな……」
「ええ……服を脱がされた、だけみたい」
頷けばフィリップはふと大きく息をこぼす。
「それだけでも許しがたいことだよ。僕は、少し前に君を名乗る手紙に呼び出された。来たところで君の姿はどこにもないし、ここに明かりが見えた気がして覗いてみたら、ソフィが倒れていたんだ」
灯りと言って、彼は床に置いたカンテラを視線で示す。これが窓辺に掲げられていたそうだ。
「呼び出されたというのは……?」
「当然君ではないよね。君のふりをした誰かだ。筆跡も似ているようで違っていたし」
「フィルは王城にいらっしゃったのではないのですか」
「ああ、この近くの街に視察の用件があって、少し前から滞在している。このところ忙しくて手紙のやりとりもできていなかったけど、新聞に載ったそうだから、君も知っていたのかと思った」
そこでフィリップは上着の内側から折りたたんだ封書を出し、私に向かって差し出した。
親愛なるフィル、という出だしで綴られたその手紙は、確かに私を名乗り、エルトの別荘に来ていることと、ひとりで抜け出すから一目逢いたい、兄を選んだのは間違いだったと悔いる内容が書かれていた。
「蝋封の印は、ブラストラーデのものだった」
「……まさかと思いますが、おひとりでいらっしゃったわけでは……」
「おひとりです」
殿下ァ!
「なぜですか! 印が当家のものだったとしても、怪しさしかないでしょう!」
「もちろん万が一に備えて繋ぎはつけてあるし、これでも一応、腕っぷしと剣はそれなりに使えるから!」
「そういう問題ではなく! フィルに、殿下に、もしものことがあればどうするんですか!」
「君にもしものことがあるほうが、僕は後悔する! 蝋封印は本物で、君が別荘にいることや、正式に婚約がなったとはいえルシアスと君が結婚することを知っている人はそう多くない。この手紙をよこした人物は、ソフィの近くにいて内情を把握している相手ということだ。──君自身が何かよくないことに巻き込まれているのだとしたら、僕ひとりで乗り込んで片を付けたほうが被害は少ないと思った。実際、こんなことになっていたし……こんな、なんか、すごく如何わしい」
「フィル……」
「本当に怪我はないね?」
「はい……すみません、フィル。助けにきてくださってありがとうございます。と、とにかくここを出ましょう! エルトの森ということは別荘も遠くないと思うんです、私がいなければ家の者たちも探しているでしょうし、あ、あの、服が見つかるまではコートをお借りしていてもいい、ですか」
「もちろんだよ、もちろんだし……ちゃんと着て、出来たら一番上のボタンまで締めてもらえると、僕の心が助かるというか……」
薄暗がりでも、フィリップが赤面しているのがわかった。
「僕も男だから……君の肌って白くてきれいで、胸もお」
「言わなくていいです!」
正直にもほどがある。
慌てふためきながらしっかりとコートの前を合わせ、私が立ち上がると、フィリップはそれを助けながら「ソフィ、落ち着いて聞いてほしいのだけど」と緊張した様子で口を開いた。
「僕たち、おそらく閉じ込められていると思う」
「え?」
山小屋の内部を手にしたカンテラでぐるりと照らし、フィリップはテーブルの上にあった凝った影が服だと気づいた。
「これはソフィの?」
「ええ、でも……」
「見事にズタズタに破かれているね。靴は──なんとか無事みたいだ」
履いて、と彼は落ちていたブーツを拾い上げて渡してくれた。
紐を結んでいる間も、フィリップは周囲を警戒した様子で伺っている。
「フィル、さっきの話ですが、閉じ込められているって……」
「たぶんね。いいかい? 見る限り、入口はあそこにある一箇所だけど」
猟師小屋なのか、ここはそう大きくはない。入口は閂をかけるタイプのドアだったが、近寄ったフィリップが押しても引いても、体当たりを仕掛けたところでドアは開かなかった。
「この通りだ。僕が入った途端、外から閉められた。で、この小屋に窓は4箇所あって、そのうち表が見えるのは、あそこにある小窓ひとつ」
手招きされてフィリップと小窓のある壁に近寄る。
「ソフィ。ここにいて、動かないように」
「は、はい……」
フィリップが小窓から顔をのぞかせた途端、窓の縁に飛んできた何かが鋭く突き刺さった。
「この通りで外に刺客がいる。四人ぐらいかな。外の様子を伺おうものなら、さっきのように矢が飛んでくる」
「や、矢? 矢って、どうして……こんなことに」
「さぁとしらばっくれたいところだけど、僕とソフィに……既成事実を造らせようとしているとしか思えない」
「きっ──既成事実って」
その時ふと気づいた。
「……母です。それしか考えられない」
「母って、オリヴィア夫人が?」
「あの人、私とフィルの結婚に執着していていたようで、話が立ち消えたことを知って怒り狂っているんです。ライリーが怯えて、それで別荘に避難を……」
「そういうことか」
この山小屋で私たちが一晩過ごしたという事実を作る。
フィリップが婚約者のいる状態の私に手を出したとして、ルシアスから私を取り上げ、歓迎されて王族に迎え入れられるとは思えない。側妃か、外に出せない妾か何か。
もはや意趣返しだ。
望んでいた状態に戻れないことはわかっている。わかっていて母は、オリヴィア・ブラストラーデは、自分に恥をかかせた娘も、王子も義息も、夫までもを巻き込んで治まらぬ身勝手な怒りを撒き散らしているのだ。
「なんて馬鹿なことを。申し訳ありません、フィル……」
「ソフィのせいじゃないよ。ライリーたちも今頃心配しているはずだ。脱出したいところだけど、さっき戸口の方から油の臭いがした。迂闊なことはできない」
──油!? 山小屋で!?
「うそでしょ! ここにきて焼き討ちエンド!?」
「や、焼き討ちエンドって?」
「ごめんなさい、ナンデモナイデス。あまりのことに驚いて……」
「無理もないよ。脅しだろうけど火を付けられたら一溜りもない。この気候じゃ最悪山火事だ。大人しく出してもらえるも思えないし……僕たちをここに押し込めておきたいだけならば、傷つけられることはないだろうから、ともかくも少し様子を見よう」