婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
足元から這い上がるような寒さに震えているとフィリップがカンテラの火種で暖炉に火を入れてくれた。ふたりとも異様な緊張感があったが、こちらのほうは油の臭いもないし、斧も火かき棒もないのにご丁寧に薪だけは用意されていたところをみると、我々を凍死させるつもりはないらしい。
暖炉の前に私を座らせ、フィリップは躊躇いながら「あのさ」と切り出した。
「誓って何もしないから、そばに座らせてもらえないかな」
「え、ええ」
「本当にごめん、僕も寒くて」
彼のコートは私が着てしまっている。
はっとして隣に腰を下ろしたフィリップに身を寄せると、彼は唇を噛んで顔を逸らした。
「あの、ソフィ、その、び、媚薬とか盛られてたりはしないよね?」
「何の展開を期待してるんです」
「すみません……そうだ。ルシアスとのこと、まだ直接お祝いを言っていなくて。よかったね。お父上も認めてくれたみたいだ」
「ありがとう、ございます。どこまで本当のことかわかりませんが、義父はそれとなく気づいていたようでした。それに、ルシアスではなくラインハルトに家督を継がせたかったようで、礼を言うとまで……」
「前から少し思っていたけど、君の家ってなかなかだね」
「あはは……お気づきです?」
フィリップはふと力を抜いて笑い、乾いた音を立てて燃える暖炉の火に目を向けた。
「僕の話をしてもいい?」
「もちろん」
「実は、君に振られてから、ヤケになってティーセルに行ってきた」
「ティーセルって──」
「お土産はないよ。本当は言うつもりもなかったから、手紙も書かなかった」
フィリップはティーセルの王家に直接、結婚の意思がないことを伝えたという。
「婚姻を外交や和平の交渉カードにするのではなく、互いの繁栄は、国政を担うもの同士の努力によって築くべきだ。ティーセルにはかつて留学もして、世話になった人も多いし、文化も豊かでいい国だよ。だから王女を人質のように差し出さなくとも、僕は喜んで彼らの使者となることを申し出た。王女もまた僕と同じ気持ちであると言ってくれた。彼女、好きな人がいるんだって。だから、この話は正式になくなった……もっと早く、こうすべきだった」
「フィル……」
「僕、君以上に好きな人が現れない限り、結婚はしないと決めたんだ」
そんな──。
「責任感じたかい? 感じてね、ソフィのせいだから」
「そんな、フィル」
「友人として、君の結婚は祝福するし、これからの君の幸せを心から願っている。けれど、僕の人生の伴侶を考えたとき、今はまだ、やっぱりソフィアが良かったと思ってしまうんだ。思うことは僕の自由だからね、これは君でさえも否定することはできない。ソフィができる唯一のことは、ルシアスととっても幸せな人生を歩んで、僕にこれでよかったんだって思わせ続けること以外にない。僕は友人の顔で近くにいるつもりだから、ルシアスの非道に君が泣いた途端、遠慮なく攫って行くよ」
穏やかな碧い目がまっすぐに向けられていた。
「愛の形はひとつじゃないから。……なんて言って、すぐに君よりいい人が現れたらどうしよう」
「悩ましいですね」
思わずふたりとも声を上げて笑っていた。
それから私たちは肩を寄せ合って、久しぶりに時間を忘れていろいろな話をした。どのくらいの時が経ったのか、薬の影響を引き摺って、私がうとうとと微睡んでいると、突如フィルが警戒して腰を上げた。
「外の気配が変わった」
腰に潜ませていた短剣を抜いたフィリップの姿に緊張して身構えた途端、表から、ぎゃと獣のような短く甲高い叫びが聞こえ、それから草木をなぎ倒すようなざわめきと共に堅い金属がぶつかり合う音が響く。
剣戟──。
「ソフィ、僕の後ろに!」
するとその時、外から覚えのある声が耳に届いた。
「ソフィア! ソフィア、どこだ!」
ルシアスだ。
「ルシェ!」
「ルシアス! ソフィアはここだッ!」
フィリップの声に応じるように戸口が叩きつけられるように開かれた。剣を片手に飛び込んできたルシアスは白い息をこぼし、青白い顔で私をその視界に捉える。
「ソフィ!」
「ルシェ!」
駆け寄るや否や、ルシアスは床に剣を落として私を抱き留めた。
「無事か……」
「ルシアス、ルシェ、来てくれたんですね」
「当たり前だ」
ルシアスは見覚えのない男物のコートを着た私と周囲の状況、そしてフィリップに目をやってすぐさま理解が至ったらしい。
「殿下」
「そんな怖い顔をするな。ソフィは攫われて、服を剥かれてここで眠らされていた。ノコノコ偽の手紙に呼び出された僕が発見したわけだけど、誓って何もしていない。天国と地獄を行ったり来たりする貴重な時間を過ごさせてもらったよ」
「ルシアス。おそらく、この件は母が──」
「わかっている。俺のところにはローワン伯の馬鹿娘が送られてきた」
リリーナが。
「おまえは今頃殿下と元の鞘に収まっているはずだと言われて、馬を飛ばしてきた。殿下、お助けくださって感謝します」
「ソフィアに怪我がなくてよかった。表の様子は」
フィリップがそう口にしたところで、戸口にウィリアムが顔を出した。
「お掃除終わったよ。一応全員生かしてあるけど、刺客は四人だけみたい。ブラストラーデが出していた捜索隊のほうとも合流できた」
「ウィリアム様」
「ああかわいいソフィ、大変な目にあったね、怪我はなかったかい? おや、よく見たら素敵なコートだ。男物? そそるな、その下もしかして」
「ウィル」
ルシアスに一言刺されてウィリアムは降参を示して両手を上げた。
「今回もご活躍だったようだね、ウィリアム」
声をかけたフィリップに目を向けると、ウィリアムは恭しい仕草で礼を取る。
「これはこれは、フィル殿下におかれましては本日もご機嫌麗しく。僕はこれと言って何をしたというわけでもありませんが、友人の頼みとあって共にこちらに馬を飛ばした次第。あ、殿下からの繋ぎは途中で確かに受け取りました。おかげで場所がすぐわかって助かりましたよ」
「繋ぎって、おふたりはそういうやりとりをする間柄だったのですか?」
「ああ、どうにも忙しくて、優秀なのがひとり欲しいと思っていたところなんだ。とてもいい働きをしてくれるよ、ウィルは」
「ぐすん。ルーシーのためにちょーっとばかし張り切っていろいろと動いてしまったら、殿下にバレちゃって。僕、脅されてるんだよ、ソフィ。可哀そうだろう? 僕のことはこれまで通りの暢気な遊び人にして差し上げてくださいとソフィから殿下にお願いしてくれるかい? これじゃあ吟遊詩人になる夢が絶たれちゃう」
「就職口決まってよかったですね、ウィリアム様」
「そういう子だよね、ソフィって」
その時だった。
表から大声で私を呼ぶ声がある。すぐにクロエのものだと気づき、ルシアスに付き添われて外に出ると松明を掲げた人々の合間に彼女の顔を見つけた。
「クロエ!」
「お嬢様!」
私を目にするなり涙を溢れさせたクロエは、駆け寄って私の手を取ると額に当てて嗚咽を漏らした。
「あぁご無事で、ご無事で……」
「心配をかけたわ、クロエ」
「お嬢様、お伝えしなくてはならないことが!」
冷たくなった彼女の指先を握り返したところで、クロエは瞳を揺らして蒼白の顔を上げた。
「坊っちゃまが、ラインハルト様が──」