婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
エピローグ
温かな紅茶を淹れ終えると、香りに誘われたのか、ルシアスは視線を落としていた書面から顔を上げた。
「──どうぞ。少しお休みになってはいかがですか」
「ああ、ありがとう」
執務机から固まった首を回して長椅子へ移動し、ルシアスは背もたれに深く体を預けると私に隣に座るよう促す。
季節は花咲き誇る春──、ここは改築の済んだ新しいリトブラストの屋敷、ルシアスと私の住まいだ。ささやかな結婚式を二週間後に控え、準備にも容赦ない仕事にも追われて、一緒にいないことには話が進まないため少し前から私もここへ居を移していた。
「いい香りだ。新しい茶葉か」
「ええ、先日フィルがお土産にくださったものです」
「殿下か……どうせ自分が来た時にでも飲むつもりで置いていったものだろう。図々しいご友人とやらに、ここは馴染みのカフェではないと伝えておけ」
「ご自分で伝えられては? ルシェももうフィルの友だちでしょうに」
「誰が、誰の、友だと?」
「違いました?」
「違うな。昔から悪しき魔王と正しき王子は敵対すると決まっている」
「魔王呼ばわりしていたこと、根に持ってます……?」
「根に持ってなどいないが、一生言い続けるつもりではある」
「それを根に持つと言うんです。……なら、王子様はこちらが引き受けますので、ルシェは大親友ウィリアム様に当家はカフェではありませんとお伝えくださいまし」
「何度も伝えた。奴はカフェどころか宿屋だと思っているから余計タチが悪い」
「あら、ついに大親友は否定しないんですね」
「ソフィ」
フィリップとルシアスは、すっかり打ち解けて仲がいい──とは一見して言えないが、顔を合わせれば嫌味交じりで言葉を交わし、食事もすればお酒の席も共にして、互いに抱えている事業や事案の意見について尋ねたりする間柄になっていた。だったら十分仲良しだろ、と傍から見ている分には思うのだが、ルシアスにこれを言うと心底嫌な顔をする。
王政の中で着実に力をつけ、ますます忙しい立場となっていったフィリップは、すっかり気に入ったらしいウィリアムを右腕としてあちこち連れ回し、ウィリアムは殿下に自由の翼をもがれ、人使いが荒いと泣き言を言いに我が家に入り浸ることがしょっちゅうだった。
文句を言いながらもきっちりと期待以上の仕事をするというのだから、何だかんだ性に合っているのだ。
子爵の屋敷に、王子殿下と公爵家の次男坊が友人として入り浸っているという構図は考えてみれば不思議なものだ。
けれど、彼らが足繁く訪れ、そこにラインハルトやトーマとクロエまでもが顔を出してくれる時を、私はとても幸せに思う。
「先程まで何をご覧になっていたんですか?」
「知りたいか?」
「知りたいです。嬉しそうに見えましたから、きっといい知らせでしょう」
ルシアスは薄く笑みを浮かべると、立ち上がって机にあった書面を手に取った。
「ソフィ、おまえは俺と結婚すれば伯爵夫人だ」
「伯爵?」
ルシアスの手にする書面は、ルシアス・リトブラスト子爵にこの度加えて伯爵位を叙すというもの、すなわち地位を引き上げることを告げる勅状だった。
「昨日受け取ってきた。伯爵領をそのまま俺が治めることとなったんだ。いずれこうなるだろうと想定はしていたが、思いのほか早かったな」
「なんと……お、おめでとうございます、というか昨日!? 登城なさるときは言ってくださいとあれほど!」
「わかっている、すまない。驚かせたかったんだ」
オリヴィアに唆されたとはいえ、リリーナがルシアスの借家に無断で上がり込んだこととこれまでの行動を重く受け止め、ローワン伯爵は完全な引退を決意し、伯爵領を慰謝料代わりにルシアスに全て譲り渡すと夫婦で田舎に引っ込んでしまった。
リリーナはルシアスという人が、何をどうしようと自分に侮蔑以外の感情を向けることはないとようやく理解し、家を出て修道院にその身を寄せることとなった。神のみに仕え、そのほかに捧ぐは慈愛のみという構図は彼女にとって分かりやすく、純真なリリーナはすぐにその環境に馴染んだという。
「おいで、ソフィ」
誘われるままにルシアスに近寄れば、彼は私をひょいと抱き上げて執務机の上に座らせた。まぁなんと行儀の悪いことか。
「これからも苦労を掛けるが、ついてきてくれるか。リトブラスト伯爵夫人」
「ええ、もちろん。私はあなたの妻であると同時に、魔王の腹心の部下ですもの。苦労などすべて承知の上です。路頭に迷うようなことがあれば、家族分の食い扶持くらいは稼いでみせますよ。旦那様」
「心強い」
重ねる口づけは深く、ルシアスは青灰の瞳を甘く滲ませて、私の腿のあたりを撫でた。
「純潔とやらは結婚まで守らなくてはならんものなのか?」
「一応?」
「あと二週間もあるぞ」
「最後までしていないだけで、もう散々なことを夜ごとされている気がしますけど……お好きにどうぞとなれば、きっと仕事に差し支えます。ルシェは簡単には放してくれそうにありませんから」
「孕むまでベッドから出すつもりがないのは確かだな」
「ほら」
「……わかった。補佐殿がいなくとも執務がつつがなく回るよう、ティムにさっさと一人前になってもらおう。話はそれに尽きる」
「ティムは今頃悪寒に震えていることでしょう」
「ならロバートもつけよう。あいつらは気が合う」
くすくすと笑って、私たちはまた口づけを交わすと互いの額を合わせた。
「愛している、ソフィ」
「私もです、ルシェ」
間もなく、私はこの人の妻となる。
定められた世界の導きではなく、これは紛れもなく、私の選んだ道だ。
(おわり)
最後までお付き合いくださりありがとうございました。