婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
──もう結婚ルートは諦めよう。
おしまい、おしまい。
ため息交じりに支度をして、私はいつもと変わりのない時間に就寝する。
社交シーズンも折り返しを迎え、両親の華々しい活動とは裏腹に、私は外聞を憚ってつつましやかな生活を送っていた。縁談が上手くいかなくなってからというもの、社交の場に積極的に赴かずとも良いように、風邪も引かない私には病弱設定が追加されたのだった。
麗しの次期ブラストラーデ侯爵として期待されている義兄はといえば、この時期は仕事も人脈づくりも忙しいらしく、今朝も朝食の席で顔をあわせて以来早々に外出し、夕方少し戻ったと思えばうんざりした顔でこれから着替えて夜会に出席しなくてはならないと言っていたから、場合によっては朝帰りもあり得る。
貴族というのは優雅に見えて、実のところ金はかかるし忙しいものだ。
ベッドに入ると夢を見ることもなくすとんと深い眠りに落ちて、ふと目覚めると、胸の前に私を後ろから抱く温かく逞しい腕があった。
はっとして身をよじって振り返ると、いつの間に潜り込んでいたのか、ベッドにはカーテンから差し込む月あかりに白く輝く髪を乱して眠る男がいる。
「ルシェ……」
長いまつ毛と彫像のように掘りが深い造作は、目を閉じていてもパーツのひとつひとつが美しい。
それに加えて、薄いシャツ越しでもその体躯には鍛え上げられた逞しさを感じる。
惜しまれて騎士団を退団したのは昨年のことだが、彼は暇を見ては鍛錬を欠かすことがなかった。
ルシアス・ブラストラーデ。
私の義理の兄となった男は、起き上がった私に気付いたのか、目を閉じたまま「夜明けにはまだ早い」と眠たげな声をこぼした。
「起こしてしまってすみません。いつ帰っていらしたんですか?」
「さっきだ……」
潜めた声と共にベッドサイドの置時計に目を凝らせば、確かに夜明けまではまだ早いが十分に真夜中という刻限だった。
「服がそのままでは、いま用意してきますからせめて着替えだけでも」
「いい。眠いんだ。寝かせてくれ……夜会は途中で抜けて、ウィルと公爵邸でずっと飲んでいた。風呂ならあいつのところで借りたから身ぎれいではある」
「そうですか……ウィリアム様と、お風呂まで」
思わず言いよどんだ私に、ルシアスはようやく薄目を開けた。
「誤解するな。風呂は当然ひとりだ」
わかっていますよ、と耐えかねて小さく笑えば、ルシアスは仕返しとばかりに私の鼻先を摘まんだ。
オーウェル公爵家の次男であるウィリアムとルシアスは同い年でかねてより親交があり、気難しい兄の心を許せる数少ない友人だ。夜会を途中でということは、お歴々方の長話に飽きたか、貴公子として注目されるふたりが揃っているところに声をかけようと集まってくるご令嬢やご夫人方を面倒がって抜け出したのだろう。
「──ソフィ」
「何です?」
「シャツのボタン、ひとつ外してくれ」
「えっ、ご自分でなさってください!」
言ったところでルシアスの青灰の目は再び閉ざされた。
すぅと静かな寝息が聞こえ始めると、私はひとつ息を吐いて、あくせくしながらルシアスの胸元を緩める。はっきり言って、目の毒でしかない。
私の腰に巻き付く彼の腕を慎重に外し、少し距離を置いて横になったのに、伸びてきた腕がすぐさま私を抱き寄せた。
「ルシェ!」
「大声を出すな。こうすると落ち着いてよく眠れるんだ」
抗ったところで無駄だった。
私はルシアスに腕力はもちろん、知力だろうが色気だろうが、あらゆることが敵わない。歯向かったところで視線ひとつで沈黙せざるを得ないのだ。
相手は義兄という名の魔王であって、私はただの雑魚なのだから。
諦めて力を抜き、眠ってしまおうと目を閉じたところで、私はうなじに温かな吐息が掛かるのを感じた。あっと思った時にはすでにそこに軽く吸い付くものがあり、ぞくりとしたとした言い知れぬ感覚が体を駆け巡る。
「で、ですから、それはダメって!」
「あぁ……そうだったな。眠くて、忘れていた」
──こいつぅ……!
振り返ってにらみつけたところで反省の色など微塵も感じられないルシアスに歯噛みしていると、彼は枕に頭を預けながら片目を薄く開け、私に向かってにたりと笑った。
「ルシェ、何度も言っていますが」
「わかった。もうしない」
「ついこの間も同じことをおっしゃいました」
「それより、──縁談の件を聞いた。また流れたと」
「ッ……ええ、はい。そのようです」
「今回も流れて正解だ。なんでも、オリヴィア夫人が見抜いたらしい」
「お母様が?」
尋ねればルシアスは軽く頷いて、指の背で私の頬を撫でる。
「例の子爵家は、どうも夫人の方に浪費癖があって、裏でよくない筋に借金を重ねていたようだ。大方それを消したくて子爵のほうを焚きつけたのだろう。息子自体は人畜無害なでくの坊という感じだが、曲者の夫人は金遣いも荒ければ手癖も悪い。いくつか小さなサロンでトラブルを起こして出禁となり、その噂がブラストラーデ夫人の耳に入ったのだろう」
「そう、でしたか……」
そんな相手と縁戚となるなど高級な会員制サロンを営む母が許すはずもない。
ルシアスの言う通り、今回も流れてよかった話なのだ。
私は長々ため息をこぼすと、上掛けを被りなおして目を閉じた。
「……どうした?」
「さすがにもう縁談の話は聞きたくないと思って。これだけ縁がないというは、おまえは結婚するなという神のご意思なのでしょう。神託が下ったのです。ろくでもないお相手との結婚を都合六度も阻止してくださって、天にまします神には心の底から感謝申し上げねばなりません」
「まったくだな」
「そういうわけで、もういいのです。呪いも祝福も一緒。私には時間も限られていますし、無駄なことなどしていられませんから」
「まだ十七だろう」
もう十七だ。こうしている間にも、物語はすでに動き出しているかもしれないのに。
目を開けると、ルシアスの顔がすぐそばにあった。
「と、とにかく結婚の話はしばらく結構です。それよりもう寝ましょう。目が冴えたのなら、ご自分の寝室にお戻りいただいて」
「ぐー……」
「うわぁ……面倒なら別にいいですけど、せめて少し離れ」
すべて言い終わらぬうちに私はぐっと強い力で引き寄せられた。
「違う違うなんでですか、離れてと言ったんです!」
「どうせ寝ているうちにソフィのほうからくっついてくるだろ」
「それに関しては誠に申し訳もございませんけど、お願いします放して寝れないからぁ」
「そう言っていつもよく寝ている」
「ルシェ!」
「おやすみ、ソフィ。いい夢を」
言って額に柔らかく触れるものがある。酔ってるなこの男!
「ルシェエ……!」