婚約に至らない私の呪いは溺愛してくる義兄の策略でした
(4)
翌朝目が覚めると、すでにルシアスの姿はなかった。
眠れないなどと喚いておきながら、普通に寝てしまった私は鼻で笑われたに違いない。
ひとり起きだして身支度を整えていると、クロエ同様長らく私についてきてくれている侍女長のマーサがやってきて、テキパキと手伝いを始めてくれる。常のように他愛ない話しながら、ベッドを整えようとした彼女は不意に「あら」と声を上げた。
「……タイが」
ぎょっとした。
上掛けの間に、昨夜ルシアスのつけていたタイが挟まっていたらしい。私は自分でも驚くほどの流れるようなスピードでマーサの視界からタイを回収した。
「ゆ、昨夜遅くに、お戻りになったお兄様と少しお話をして、その時にきっとお忘れのでしょうアハハ……」
「そ、そうでしたか」
「というか、お兄様は……?」
「今朝はお早いようで、先ほどお出かけになりましたが」
「そう。実は、マーサも聞いたとは思うけど私の縁談が流れたこと、お兄様ももう知っていらして、そのことでいろいろ話し込んでしまったというか」
「若様もご心配されていらっしゃったのでしょうね」
「ええ……」
嘘ではない。
ここで寝ていったということを話さなかっただけで嘘ではないのだが、マーサに隠し事をするということ自体に心が痛んだ。
「あ、そういえばお兄様から理由聞いた」
「理由って、縁談が流れた理由ですか?」
「今回もなかなか壮絶だったけど、マーサ、聞いてくれる?」
言えば彼女の関心はすぐさまそちらに向けられた。これ幸いと話題を変えて、私は後ろ手に握りしめるタイを隠し続けた。
ルシアスが、──義理の兄が、夜毎ベッドに潜り込んでくる。
誓ってそれ以上のことは無いのだが、私だって、抱き枕のように扱われるこの状況を喜んで歓迎しているわけではない。
これは元々、完全無欠の魔王ルシアスに隠されていた些細な苦手意識を克服するための私なりの手助けであり、ひいては生き残りを掛けた仲良し兄妹作戦のひとつだったはずなのだ。
確かにある種仲良しではあるが、私の想定していたものではない。
どうしてこうなったかと振り返ったとき、ルシアスに嵌められた気が何となくしているものの、嵌めましたかねぇなんて、恐ろしくて聞けるはずもなかった。
私はこの世界でルシアスに虐げられることなく平穏に暮らすため、彼と出来うる限り良好な関係を築くことに信念を燃やしてきた。
小説に描かれていた義妹ソフィアは根暗で陰気で無口とあって、ルシアスはそんな彼女の存在そのものが疎ましくてならなかった。
だから、両親の再婚当時、十歳になるかならないかというまだあどけなさの残る私は兄となったルシアスの前では明るく年相応に無邪気に振る舞い、たとえ中身がくたびれた三十路女であっても、かわいいふたつ下の妹に映るよう兄に頑張って尽くし、時に甘えてわがままも言ってみた。
はじめのころ、ルシアス・ブラストラーデは、それこそ噂通りに文武に秀であらゆることに完璧でありながら、その実、冷えきった氷のような青い目をして多くの物事に無関心な少年だった。そんなルシアス少年も私と共に過ごすうち、徐々に私だけには心を開き、表情筋が死んでいるのかと疑ったその美しい面差しに笑顔を見せてくれるようになっていった。
まぁ正直その笑顔というのも、私を嘲笑うかのような──例えるのなら、滑車を懸命に廻す滑稽なこまねずみをはるか高みから眺めるようなもので、うまいこと取り入ろうとする私の打算などとっくにお見通しくらいの空恐ろしさがルシアスにはあったわけだが……。
だが事実、そこから月日が経とうとも、ルシアスは精神的にも物理的にも、私を害したり虐げたりすることは一度もなかった。
睨まれると即死に近かったが、何だかんだ優しかったと思う。
私はそれなりに上手くやってきたはずだ。
着かず離れず、ウザすぎず。どこかでリリーナと出会っていないか、ルシアスの近況はできるだけ確認しつつ、父侯爵の要請に従い騎士団を辞したルシアスが家に戻ってからは一応私の前世の知識が生きることもあって、執務を手伝ったり、意見を求められればそれに応じて、でもそこも出すぎないように気を付けた。とはいえ、ほら私って使える下僕ですよね、あっさり切らないほうがいいですよというささやかなアピールは欠かさなかった。
ルシアス・ブラストラーデに歯向かうことは許されないというのは、出会った時点で本能的に理解したものの、生き残りをかけて足掻いた仲良し兄妹作戦は、多少なりうまく行っている。
私はそう思っていた。
なのに、上手くいっているどころか、気付かぬうちに別問題が起きていたなんて。
──不覚。
そもそもきっかけは、自らの意思で入団した王国騎士団の独身寮で二年間くらし、去年約束の期限を迎え舞い戻ったルシアスが、本邸ではなく離れの私の隣の部屋で寝起きするようになって、しばらくした頃だった。
相談があると呼ばれ、深刻な調子で告げる無欠のルシアス曰く、「女性との触れ合いにそこはかとなく嫌悪感があるのだが、どうしたらよいだろうか」と。
まさかと思った。
優雅に座っているだけでこれほどの魔王感のある男が?
ルシアスは淡々とどこまでも真面目に告げた。
前々から薄々感じていたことだそうだが、騎士団で男ばかりの空間で暮らしてきて、ここに戻ってはっきり気づいてしまったらしい。性的嗜好は女性に向いているものの、たとえば同じ年ごろの令嬢と茶会の席などで一緒にいるとどうにも苛ついてきてしまい、彼女たちの手が身体に触れようものなら全身が粟立つという。
誰もが見惚れるような見目をしているというのに、確かにルシアスは女性関係が希薄で、ずっと婚約者がいない。
もちろん理由は私とは異なり、ルシアスが首を縦に振らないせいだ。未来の侯爵夫人となる相手とあっては父親としても判断に慎重になっており、その間に私の縁談お流れ事件が多発して、ルシアスの縁談にまでも影響が出始めた。
ルシアスはルシアスで今は結婚よりも領地や執務のことを覚えたいと言い、時機がくれば自分から申し出ると明言して父侯爵はこれを了承した。ルシアスであれば、呪われし妹の私と違って売れ残る心配もないと踏んだのだろう。
だが、打ち明けられた通り、女性が苦手とくれば、婚期とは別に結婚生活それ自体に影響がでることだ。
このときの私は大変迂闊だった。
あらまあそれは難儀でいらっしゃいますねで済ませていれば、小説の筋書きのようにリリーナに惚れた腫れたをすることもなかったかもしれないのに、すっかりそれを忘れ、人知れず悩んでいた胸の内を私にだけ打ち明けてくれた兄を単純に見過ごせなかった。
何か出来ることはあるかと聞けば、私には苦手意識がないから克服のための練習台になってくれないかと言う。