夢を喰む魔女の白い結婚

「アルマ・フランソワ伯爵令嬢。来てもらった早々すまないが、私が君を愛することはない」

 ヴィクトル・ランベール辺境伯は、輿入れしてきたばかりの私を出迎えるなり、冷たい声でそう言った。

 国境に接する辺境伯領を治める若き領主は、月を思わせるような銀色の髪と青い瞳、鍛え上げられた鋼の肉体を持つ、美貌の貴公子である。
 琥珀色の瞳と蜂蜜色の髪という、よくある地味な容貌の私では、とても釣り合わないような美男子だ。立派な軍服も良く似合っている。
 ――これで顔色の悪さと、目の下のクマがなかったら、完璧なのだが。

「君を妻として迎えたのは、ガルシア公爵の意向ゆえであって、私は君との結婚に反対だったのだ。君も、一度も顔を合わせたことのない男の元に嫁ぐなど、不本意だっただろう」

 彼の言う通り、私はガルシア公爵の意向に沿って、ヴィクトル様の元に嫁ぐことになった。
 ガルシア公爵家はフランソワ伯爵家と深い繋がりがある家だ。
 公爵の嫡男がヴィクトル様の幼馴染だそうで、なかなか結婚しないヴィクトル様のために組んだ……というよりも、強引に進めた縁談だったらしい。

「申し訳ないが、結婚早々に別居や離縁となっては角がたつため、君をすぐに解放するわけにもいかない。だが先程言ったように、私は君を愛する気はないし、私が君に求めるものも何一つない」

 ヴィクトル様は冷たい表情で私を見下ろしている。だが、私は動じることなく、夫となった人を見つめ返した。
 本来なら美しいはずの青い虹彩の周りは、少し充血している。目の下のクマといい、やはり寝不足なのだろう。
 私は自分の置かれている状況よりも、ヴィクトル様の体調の方が気になってきて、彼の様子をただじっと観察する。

 彼は、私が怒るとでも思っていたのだろう。
 心配そうに自分を観察するという予想外の反応に、少しだけたじろいだような様子だった。
 ヴィクトル様は、咳払いをして続ける。

「ごほん。……とにかく、社交の場以外では妻としての振る舞いも求めないし、養子を取るつもりだから世継ぎも不要だ。必要なものがあれば可能な限り用意するから、どうか屋敷で大人しくしていてほしい」

「ええと、つまりは、公爵閣下の顔を立てるためにとりあえず籍は入れたけれど、自分には極力関わらないでほしいと。そういうことですわね?」

「……ああ。話が早くて助かる」

「承知致しましたわ。貴方に迷惑はかけないようにさせていただきますわね」

 そこで私は、にこりと微笑んだ。
 彼はますます私の気持ちが読めなくなって不快に思ったのだろう、ギュッと眉を寄せた。

 普通は、愛さないと言われたら侮辱されたと感じて腹を立てるものだろう。
 だが、私はむしろ、ある意味とても正直で誠実にも思えるその言動に、好感すら持った。

「……三年だ。三年経ったら、離婚しよう。慰謝料は払う」

「承知いたしました。それまで、しっかりと貴方の妻を演じさせていただきますわ」

 私がさらに笑みを深めて頷くと、ヴィクトル様は不審なものでも見るように私を一瞥し、去っていった。


 こうして、私たちの白い結婚生活が始まった。
 仕事の邪魔をしなければ私が何をしようと自由だし、ヴィクトル様も私のすることに興味を持っていないようだった。


 時折偶然に顔を合わせるヴィクトル様は相変わらず忙しそうで、その顔色もクマも一向に良くなる気配がないことが心配だった。
 とりあえずで結婚したお飾り妻だろうが、妻は妻だ。愛されなくとも、この家で世話になっている以上、夫の体調は気になるものである。

 だが、私には「ヴィクトル様にあまり踏み込まない」という約束がある。仕事を手伝うこともできないし、近くで悩みを聞いたり癒してあげることもできない。
 私は、ガードの固い夫よりも先に、ランベール辺境伯家の使用人たちとの距離を縮めることから始めたのだった。





 しばらくして私は、庭の一角に作ってもらったハーブ園の世話をするのが日課になっていた。
 植えてあるハーブは、料理に使うものから虫除け用のものまで、多岐にわたっている。

「こちらの鉢はやっと収穫できるわね。向こうの鉢はもう少し日当たりの良い所に移動した方がいいかしら」

 仲良くなった庭師に時折アドバイスをもらいながら、丹精込めて育てたハーブは、どれも良く育ってきている。
 手をかければかけるだけ元気に成長してくれるハーブを眺めるのは、私にとっても非常に楽しく、心満たされるものだ。

「ハーブさんたち。少し葉っぱを分けて頂戴ね」

 数種類のハーブを収穫した私は、部屋に戻ると、ハーブ乾燥用の天板に収穫したものの一部を並べていく。
 続いて、清潔な小瓶の中に、カモミールを中心とした安眠効果の高いハーブ類をブレンドして詰める。
 そこにフランソワ伯爵領から持ってきた特別なハーブを少し混ぜ、収穫したばかりのミントの葉を乗せれば、アルマ特製ハーブブレンドティーの完成だ。

「ねえあなた、こちらの茶葉をヴィクトル様に差し入れして貰っても構わないかしら? 夜に召し上がっていただくと良いと思うわ。ひと瓶でポット一杯分の茶葉よ」

「かしこまりました」

 私は小瓶の蓋を閉めると、「庭で採れたハーブをブレンドしたお茶です」というメモを添えて、信用できる侍女に渡した。
 関わるなとは言われているが、私が庭にハーブ園を作っていることは知っているし、このぐらいは構わないだろう。

「飲んでいただけると良いのだけれど」

 ヴィクトル様が三年の期限を設けて白い結婚を宣言したのには、理由がある。
 彼はうまく隠しているつもりのようだが、私にはその一端が分かった。

「きっと、彼は、悪夢に憑かれている」

 青白い顔。目の下のクマ。半地下になっている寝室と、外側からかけられた錠前――。
 さらに、使用人から話を聞いて、私は自分の考えが正しかったことを確信した。

 ヴィクトル様に異変が起こったのは、隣国との戦争が休戦に入る前、戦争の末期だったそうだ。
 大敗を喫した戦場から命からがら帰還した彼は、その身に負った傷が治った後も、心に深く刻まれた傷は癒えなかった。
 その頃からヴィクトル様は、眠っている時、自分の意思に反して大きな声を出したり、物を壊してしまったりするようになったらしい。
 彼が「私を愛することはない」と言ったのは、悪夢に憑かれた彼の行動に、私を巻き込まないようにするためだったのだろう。

 三年の期限を設けたのは、私のためでもあるが、縁談をまとめたガルシア公爵への配慮のためでもある。
 三年もの間、世継ぎを産むことができなかったのであれば、充分離縁が認められる理由となり得るからだ。

 だが、公爵閣下が無理にでも私たちの縁談をまとめたのには、ヴィクトル様も知らない理由がある。
 実は、フランソワ伯爵家には、ちょっとした秘密があるのだ。

 そして。
 困惑した表情のヴィクトル様が私の部屋を訪ねてきたのは、翌朝のことだった。

「アルマ。昨日のは、一体何だ」

「ハーブティーのことでしょうか? 庭で採れたハーブを中心に、ブレンド致しました。安眠効果の高いものを選んだのですが、よく眠れましたか?」

「ああ。久しぶりにぐっすり眠れたよ。だが、私が聞きたいのは――」

「まあ、それは良うございましたわ。お顔つきも、幾分すっきりしておられますものね」

 私は、満面の笑みで夫の言葉を遮った。
 ヴィクトル様は納得のいっていなさそうな表情だったが、自分でも確信が持てないのだろう。
 それ以上深く掘り下げるのは、気がひけたようだ。

「今夜もまた、お作りしましょうか?」

「……そうだな。頼んでも良いか?」

「ええ、勿論ですわ」

 ヴィクトル様は、私に質問するのを早々に諦めた。
 まだ……今はまだ、私の秘密に気付かれたくない。

 この後はもう、私の部屋を訪ねてくる人もいないだろう。
 私は、昨晩眠れなかった分を取り戻そうと、部屋着に着替えて、ベッドの中に潜り込んだ。





 ヴィクトル様が特製ハーブティーを飲んでくれるようになってから、しばらくの時が経った。
 彼はちゃんと眠れるようになったようで、日に日に、目に見えて元気を取り戻していく。

「アルマ、おはよう」

「おはようございます、ヴィクトル様」

 彼は律儀にも、毎朝私にハーブティーのお礼を言いにきてくれる。
 君を愛することはない、関わらないでほしい、なんて言っていたはずなのに、今や気がつけばヴィクトル様の方から食事に誘ってくれるようになった。

「ヴィクトル様、最近体調が良さそうですわね。しっかり眠れていますか?」

「ああ、君のハーブティーのおかげだ。感謝しているよ、アルマ」

「それは良うございました」

 ヴィクトル様は、最初に会った時も美男子だったが、その時に比べても見違えるほどの美貌を取り戻した。
 肌はつやつやとして血色が良く、目の下のクマも綺麗に消え去っている。
 苛々した様子もなく穏やかな微笑みを浮かべ、冷たく鋭かった目元も、雪解けが来たかのようにやわらいでいた。

 一方、私は扇を口元で広げて、噛み殺したあくびを隠す。
 ヴィクトル様の悪夢は根が深いから、書き換えが終わるまでまだしばらくかかるだろう。

「……アルマ。君は、少し顔色が悪いな。少々痩せたのではないか?」

「あら、そんなことはございませんわよ」

「そうか? もし体調が悪いのなら、医者を呼ぶが」

「いいえ、大丈夫ですわ。ご自分の体調がすぐれないのにご心配くださるなんて、ヴィクトル様は優しいのですね」

「……私が、優しい? そんなわけないだろう」

「ヴィクトル様は優しいですわ」

 私がじっと見つめると、ヴィクトル様は少したじろいだ。
 ヴィクトル様自身がどう思っていようと、彼は優しいひとだ。
 だからこそ悪夢に憑かれて、今もまだ苦しんでいる。

「……何かあるなら早めに言いなさい。物であれ人であれ、すぐに手配するから」

「はい。お気遣いありがとうございます」





 夜になると、私はヴィクトル様の悪夢にもぐる。

 フランソワ伯爵家は、魔女の家系である。
 魔女が表舞台に立たなくなってからもう随分長い時間が経ったが、ガルシア公爵家の庇護のもと、私たちはその特別な力と秘伝を守り続けてきた。

 私、アルマ・フランソワの魔女の力は、我が家に伝わる特別なハーブ、『夢喰(ゆめは)みの香草』を取り込んだ者の夢の中に入る力だ。
 過去に実際に起こったことは変えられないが、私の力をもってすれば、夢に干渉して夢の中の歴史を変えることはできる。

 ヴィクトル様の悪夢は、悲惨なものだった。
 指揮官として戦争の前線に立っていた彼は、その手で敵を(ほふ)り、同じだけ味方を失った。
 友の最期を看取り、自らも大怪我を負ってもなお、失われた命の向こう側で待つ者の怨嗟が、人を手にかけた感触が、無力感が、彼をずっと責め続けた。

 私は夢の中では万能だ。
 聖女のように全ての傷を癒すことも、端から端まで刃を消し去ってしまうことも、敵も味方もなく手と手を取らせることだって、できる。
 ただし、目が覚めたら、夢の中で起きたことはすべて幻になってしまう。

 だからこそ私は、毎夜ヴィクトル様の悪夢を癒しの夢に書き換えたのちに、誰かの姿を借りて必ずこう告げるのだ。

「過去はどうやっても変えることはできない。けれど、未来を生きる者たちが悲しい思いをしないように、過去を織って、今を紡いでいく。それができるのは、痛みを知る貴方だけなのだ」と。

 ヴィクトル様の悪夢は、私が干渉しなくても、少しずつ形を変え始めた。
 悪夢を見る時間も短くなってきているから、このまま『夢喰(ゆめは)み』を続けていれば、いつか自分の力で過去を乗り越えられる日が来るだろう。

 ただ――結婚の契約をしている三年のうちに、悪夢を消し去れるかどうかだけが、気がかりである。





 そんなことを続けていたある日。
 私は、風邪を引いて倒れてしまった。

「アルマ……大丈夫か?」

「ええ……それよりも、ヴィクトル様は大丈夫ですか? 今日は、ハーブティー、ブレンドできそうにありません」

「こんな時にまで私のことを……君という人は」

「だって……、そのせいで夢見が悪くなってしまったら……」

「私のことはいいから、ゆっくり休みなさい」

「ヴィクトル様、忘れないで。過去は変えられないけれど、未来は変えられる……それができるのは、痛みを知る貴方……だけ……」

 私は高熱で朦朧としながらも、ヴィクトル様に言いたいことだけ告げて、意識を手放した。
 瞼を閉じる前、最後に見たのは、ヴィクトル様が驚きに目を見開いて、何かを言おうとしている姿だった。





 私の熱が下がったのは、それから二日ほど経った後。
 ヴィクトル様は、風邪がうつるかもしれないということも厭わず、私の部屋まで切り花と果物を自ら届けにきてくれた。
 顔色がすぐれないのは、やはり熱が出てしまった日の夜から、ヴィクトル様の悪夢にもぐっていないからだろう。

「ヴィクトル様……今日は起き上がれそうですわ。今夜はハーブティー、ブレンド致しますね」

「いや、まだ無理をしてはいけない。君にも睡眠は必要だろう?」

「まあ、私でしたら、充分休ませていただきましたわ。それよりも、貴方の顔色が良くないのが気になるのです」

「私は……、いや、私のことでアルマを煩わせるわけにはいかない。これは私自身の問題なのだから」

「ですが……」

 ヴィクトル様は、柔らかく微笑んで首を横に振ると、私の手を取った。
 そのまま私の手を持ち上げると、その甲に口づけを落とす。

「……っ!」

 私は、突如もたらされた仮初(かりそめ)の夫からの愛情表現に、驚いて固まってしまう。

「さて、私は仕事に戻らないと。より良い未来を創るためにね。……アルマ、ゆっくり休んでくれ」

 甘い笑顔を残して、ヴィクトル様は私の部屋から出ていった。
 高鳴る鼓動のせいだろうか、下がったはずの熱が、また少し上がったように感じられた。





 それから数日。
 ヴィクトル様は、久しぶりに『夢喰(ゆめは)みの香草』を混ぜたハーブティーを飲んでくれた。

 私はいつものように、ヴィクトル様の夢にもぐる。
 今日も、彼が立っているのは、戦場となった荒れ野だった。
 空には、いつもと同じく分厚い雲がかかっている。

 けれど、今日の夢は、普段と様相が異なっていた。
 敵も味方も、誰一人ヴィクトル様の近くにいないのだ。

 私は普段と同じように、青い小鳥の姿を借りて、ヴィクトル様に近づいた。

『ヴィクトル様』

 私はそう発するが、口から出てくるのはピイピイという(さえず)りの音だけ。
 小鳥の姿を借りた私は、ヴィクトル様の差し出した指先に止まる。

「しばらくぶりだな、青い鳥よ。待っていたぞ」

『貴方は、私を待っていたのですか?』

「ああ」

 言葉になっていない囀りの声なのに、彼には私の言うことが分かっているようだった。

「いつも俺を悪夢から救いだしてくれるのは、君なんだろう? 青い鳥――いや、アルマ」

『……!』

 ヴィクトル様が私の名を呼ぶと、青い小鳥の姿が、私の意思に反して光の粒子に変わっていく。
 光の粒子は再収束し、私――アルマ・フランソワの姿をとった。

「どうして、お分かりに?」

「君が、病床で私にこう言った。『過去は変えられないけれど、未来は変えられる。それができるのは、痛みを知る貴方だけ』と」

「……! まあ、うっかりしてしまったわ」

「それが決め手ではあったが、それだけではない。私が悪夢を見なくなってから、君は日中ずっと眠そうにしていた。まるで私と入れ替わるかのように。……日中に眠かったのは、夜に、ずっと私と一緒にいてくれたからなのだろう?」

「……もう隠し立てする必要もありませんわね。ご明察ですわ、ヴィクトル様」

「アルマ……ずっと、聞きたかったことがあるのだが……」

 ヴィクトル様は、言い淀んで、かぶりをふった。

「いや、やめておこう。それより、ここは夢の中だ……なら、許される、よな?」

「え? 何が――」

 尋ねようとした私の言葉は、突然唇に触れた柔らかな感触に塞がれてしまった。
 ヴィクトル様の逞しい腕が、私の背中に回る。
 夢の中なのだから好きにすればいいのに、ヴィクトル様は壊れ物を抱くように、私を優しく抱きしめた。

「アルマ……私は、君を愛さないと言ってしまった。なのに、今はこんなに君を愛しく思う。私は、どうしたら君に許してもらえる?」

「ヴィクトル様……」

 間近で見る彼の瞳は、夢の中でも優しく澄んでいた。夢なのに、不安に潤んでいた。
 私は、彼の背中にそっと自分の手を添える。

 雲が切れ、空からは柔らかな光が降り注ぐ。
 ヴィクトル様の秀麗な(かんばせ)が、光に照らされ淡く色を帯びる。

「何度も言ったでしょう? 過去は変えられないけれど、未来は変えていけると。それができるのは――」

「痛みを知る、私自身……か」

 彼の返答に私が頷くと、今度こそ、私は光の粒子となって、空へ舞い上がっていった。
 夢が終わり、目覚めの時が来るのだ。
 悪夢から解き放たれた彼は、決意に満ちた表情で、光差す空を見上げていた。





 夢から戻った私は、昼過ぎまで眠って、夕食の席でヴィクトル様と顔を合わせた。
 ディナーは二人で、いつも通り屋敷でいただく予定なのに、なぜか私は侍女に身だしなみを綺麗に整えられ、外出用の上品なドレスを着せられている。
 ヴィクトル様も軍服ではなく貴族服を身にまとい、髪もセットされていて、いつも以上に凛々しい。

「アルマ、話がある」

 ディナーの後で、ヴィクトル様は人払いをした上でそう切り出した。
 その秀麗な(かんばせ)には、うっすらと緊張が宿っている。

「昨晩、夢で話したことを覚えているか」

「……はい」

「そうか」

 私が頷くと、ヴィクトル様は小さく微笑んだ。

「なら……聞きたかったことがあると言ったのも?」

「ええ、覚えておりますわ」

 ヴィクトル様は、私をソファーまでエスコートした。
 一人分の空間をあけて、隣同士、並んで座る。

「アルマ。私は、君に最初から冷たく当たっていた。なのに、どうして、自分を犠牲にしてまでも私を救おうとしたのだ?」

「それは……公爵閣下の頼みで、貴方の体調を気にかけるように言われたから……というのが最初のきっかけです。けれど、それだけだったら、本気で取り組んだりしませんでした。私が身を削ってでも、何としても貴方を救おうと思ったのは、私自身が、貴方に笑ってほしいと願ったから」

「……どうして、そこまで?」

「うーん、どうしてでしょうね。貴方に同情したから? お飾りとはいえ、貴方の妻だから? 放っておけなかったから? ……いえ、どれもしっくりこないわ」

 私は、首を傾げて少し考える。
 隣を見ると、澄んだ青い瞳と視線が交わって、私はその答えにピンと来た。

「分かったわ。きっと、私が貴方に惚れてしまったから、ですわね」

「ほ、惚れ……?」

「貴方は、最初から優しく紳士的でした。寝不足で体調が悪いにも関わらず、私を気遣ってくれましたし、使用人にも優しく接していました。お仕事に対しても真面目で手を抜かず、真剣に領民や国のことを思っています。私は、そんな貴方に、人として惚れ込んでしまったのですわ」

「人として……か」

 ヴィクトル様は、ふ、と笑みをこぼした。

「それでも嬉しいことには違いないが。……だが、アルマ」

「はい、何でしょう」

「私は君を、人としても、女性としても、愛してしまった。愛さないと宣言したのは自分なのに、何を言っているのかと思うだろうが……それでも、いつの間にか、君を心から愛しいと思うようになっていた」

 ヴィクトル様は、私の手を取った。
 彼の手は、緊張からか、冷たくなっている。

「三年間の契約ではなく、君さえ良ければ……アルマ・フランソワ、君を、本当の妻として迎えたい」

「……それって……」

「結婚してくれないか、アルマ。仮初(かりそめ)なんかではなく、心から望む、愛しい妻として」

 真っ直ぐな彼の言葉に、視線に、頬がじわじわと熱を帯びてゆく。

「わ……私、その、貴方を」

「――今はまだ、『人として』でも良い。けれど、いつか、『男として』君に惚れてもらえるように努力するから」

 切実な眼差しが、私を射抜く。
 私は、冷えたヴィクトル様の手をあたためるように、上からもう一方の手を重ねた。

「ヴィクトル様。心配なさらなくても、私、貴方をお慕いしていますわ……男性として。本当の、夫として」

「……! アルマ……!」

 一人分あいていた空間が、二人の距離が、ゼロになる。
 ヴィクトル様の抱擁は、夢の中と同じく、やはりどこまでも優しかった。

「夢じゃない、よな」

「ええ。夢ではありません」

「じゃあ、これも、ノーカウントかな?」

 ヴィクトル様は、私の顎に手をかけて、低く甘く囁いた。

「――ええ。夢の中のことは、幻……ですから」

 私はそっと瞼を閉じる。
 正真正銘、はじめてのキス。
 唇に落ちた感触は、夢よりもあたたかく、優しいものだった。

「……今度は、幸せな夢を、二人で見ましょうね」

「ああ。夢でも、現実でも、幸せにする」

 すっかりクマの消えた美しい目元が優しく細まり、私は再び目を閉じる。

 甘く優しい幸せが、彼を苦しめる悪夢を全て溶かしてしまう日も、きっともうすぐだろう。
 内に眠る夢喰(ゆめは)みの力によるものだろうか、私はそんな確信を抱いた。

 ――愛しいひとと、甘く深い口づけを交わしながら。



 〈了〉
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