俺達の恋物語

8

「東大を目指してた男が、今はコンビニの店員か…」孝太郎はレジに立ちながら、ぼんやりとそう自嘲することがあった。東京大学を目指して必死に勉強していた日々が、まるで遠い昔のことのように感じられる。結局、受験に失敗し、さらに生活のために始めたコンビニの仕事にどんどんのめり込んでいった。働いていくうちに「安定した生活も悪くない」と思うようになっていたが、同時に、自分のかつての夢を諦めたことに複雑な思いも抱えていた。優香との「ラブラブな関係」も、いつまで続くのだろう。そう不安に思うこともあった。新しい生活が始まったばかりのころは毎日が新鮮で、二人の絆が深まるのを感じていた。だが、生活が落ち着いてくると、お互いの「現実」に向き合わざるを得なくなる瞬間も増えてきた。ある夜、帰宅した孝太郎がふとため息をつくと、優香が心配そうに尋ねた。「孝太郎、大丈夫?最近、何か悩んでる?」
孝太郎は少し間を置いてから、「…俺、今のままでいいのかなって思ってさ。東大目指してたあの頃と、今の俺って、違いすぎる気がして。」と正直に打ち明けた。優香は孝太郎の手を握りしめ、「孝太郎がどんな道を選んでも、私は一緒にいるからね。でも、もしまだやりたいことがあるなら、私は応援するよ。」と静かに微笑んだ。彼女の言葉に、孝太郎の胸が少し軽くなった。いつか、何かをもう一度始められるかもしれない――そんな小さな希望が、心の奥に芽生えた気がした。それでも現実は変わらない。コンビニで働く日々が続く中で、孝太郎は、今の生活の中でできることを見つけながらも、いつか新しい一歩を踏み出すための準備を心の中で進めていくことを決めた。
「お二人さん。ラブラブな相手がいるだけで幸せたい」と声をかけてきたのは、コンビニの店長、春日江康二、39歳だ。康二は優香と孝太郎の関係を微笑ましく見ているらしく、何かと二人をからかうような言葉を投げかけてくる。孝太郎は少し照れくさそうに笑い、「まあ、店長にはまだ負けますよ。優香も俺も、店長みたいに貫禄があるわけじゃないですから」と返した。康二はそんな孝太郎の反応に大きな声で笑いながら、「俺のどこに貫禄があるって? ただの独りもんのオヤジよ」と肩をすくめる。
「でもさ、二人は若いし、まだまだこれから何でもできるだろう? 目標とか、夢とか、あるんじゃないのか?」康二はふと、真剣な顔でそう聞いてきた。孝太郎と優香は顔を見合わせるが、答えが見つからない。優香は「うーん…今は、この生活を大事にしてるって感じですかね」と少し照れくさそうに答える。
「なるほどね。でも、そっか。幸せって案外そういう小さなところに転がってるもんよ。俺も何もかも捨ててでも手に入れたい『何か』があったはずなんだけどな、どこかで見失ったかもな」康二がぽつりと呟くと、その言葉に二人も少し考え込むように静かになった。康二は、照れ隠しのように大きく咳払いをして、「ま、なんでもいいけどよ。人生楽しむのが一番だ。いつか俺みたいにおっさんになってから、後悔するなよ」と笑って、店の棚に向かって歩いていった。その背中を見ながら、孝太郎はふと考えた。自分はどんな未来を望んでいるのか、何を求めているのか…。そんな折、孝太郎は自分に何ができるのかと考え始めた。これまで積み重ねてきた勉強も、今の生活には役立っていない。東京に来て、目指した東大進学の夢はいつの間にか色あせてしまい、今ではただ日々を過ごすだけになっていた。
「まだ21歳なんだよな…」若さだけが唯一の武器と言えるかもしれない。しかし、若さに頼るだけでは、二人で月収20万円の生活から抜け出せる気がしない。コンビニの店員として働く自分が、将来に何の希望を抱けるのか、そんな疑問が頭をよぎる。その中で、ふと故郷・熊本のことを思い出す。あの静かな田舎で暮らす両親の姿が脳裏に浮かび、胸が締め付けられるような気持ちになる。東京に夢を抱いて飛び出したはずが、今やその夢も薄れ、迷いが心を支配していた。
「熊本に帰るのも一つの手かな…」と、孝太郎は心の中で呟いた。しかし、優香の存在がその決断をためらわせる。彼女との生活は穏やかで楽しいものだったが、このまま東京で何も成し遂げられないまま過ごすのか、それとも新しい未来を切り開くために別の道を選ぶのか。自分の人生にとって、どちらが本当に正しい選択なのかを、孝太郎はまだ見極められずにいた。孝太郎は、優香の変化に戸惑いを感じていた。彼女が夜の店で働き始めたと知り、不安と焦燥が交錯する。二人で東京に出てきてからの生活は、決して楽なものではなかったが、互いに支え合って何とか乗り越えてきた。それでも、今のままでは先が見えない──そんな思いが二人を離れさせ始めているのかもしれない。
「熊本に帰ろうか?」と孝太郎が提案すると、優香は迷うことなくうなずいた。その潔さが逆に寂しさを感じさせたが、二人にとってもはや東京にいる理由は薄れかけていたのかもしれない。子どももいない、家庭のしがらみもない。若い二人には選択肢がある。新しい場所での再出発を決意し、5年ぶりに故郷の地へと向かうことにした。熊本への道中、孝太郎はふと東京での日々を振り返った。都会の喧騒、二人で過ごした狭いアパート、そして未来への漠然とした夢──それらがすべて遠くなるにつれて、自分の心が少しずつ軽くなっていくのを感じた。一方で、優香の横顔にはどこか複雑な表情が浮かんでいるのが気にかかる。田舎に戻って、彼らは新しい生活をどう築いていくのか、そして優香の変化が示唆するものは何なのか──それはまだ、二人にもわからないままだった。
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