ReTake2222回目の世界の安田雄太という世界線

プロローグ

36歳になった安田翔子(やすだ しょうこ)は不機嫌そうな顔をして、「安田美咲(やすだ みさき)」と名札がかけられている、病室のドアの前に立っていた。
 眼の下に、軽くクマができている彼女は「フゥ~」と大きく息を吐いて、ノックしたドアを開けた。
 ベッドの背中を起こした状態で、老眼鏡をかけて本を読んでいる女性は、老眼鏡を外してこちらを見た。
「おはよう」
 翔子は不機嫌そうな顔を、めいっぱいの力で笑顔に変えて言った。「おはよう、お母さん。調子はどう?」
「なぁに?クマなんか作って、機嫌悪そうね」母親である美咲にはお見通しだ。
 その場で何かを言いかけた翔子は、ぐっとこらえて、ベッドわきまでズンズンと進み、折り畳み椅子を広げてそこに座った。
 美咲はベッドのサイドテーブルに、読んでいた本を置いた。
「さて、私はいったい何を怒られるのかしら?」両手を体の前に揃えて翔子を見た。

 「なによ、これ?」翔子は一冊の古いノートをカバンから取り出して、美咲の揃えた手の上に乗せた。
 美咲はそのノートを両手で大事そうに持った。「あらあらあら」美咲は翔子が見たことのないような、温かく深い笑顔で、そのノートの見つめた。

 翔子は両目をギュっとつぶって言った。「お母さん。悪いとは思ったけれど、全部読んじゃったわ。一緒にまとめてあったノート、全部読んじゃったわよ!何よこれ?いったいどういうことなのよ!?」
 美咲はノートのページをめくりながら言った。「これはね、お父さんだけが失くした、お父さんの時間よ」
「なにそれ?お父さんの日記でしょ?もう夜通し読んじゃったわよ。小さい頃からお父さんの言っていることが、おかしいなって思うことがあったけれど、全部つながっちゃったじゃない!何なのよ!」翔子は不安な気持ちをぶつけるような口調で言った。
 
 ――トントン
 
 ドアをノックする音が部屋に響いた。
 「どうぞ」ベッド上の美咲が声をかけた。ドアが開くと、そこには美咲と同じくらい、60代中盤くらいで身長は165センチくらいの、小柄だけどなぜか大きく見える、頼り甲斐のありそうな白衣を着た医師が立っていた。
「おや、娘さんも来ていたんですね」医師が笑顔で言った。医師の胸には「院長 神波真理雄(かんなみ まりお)」という名札がつけられている。
「真理雄君。これ見て」美咲は満面の笑顔で、ノートを真理雄に見せた。

「あ!悠太君の日記?懐かしいなぁ……」真理雄も笑顔になって、翔子とは反対側のベッドわきに歩み寄った。
「見ていいの?」真理雄は美咲に聞くと、美咲はウンウンと首を縦に振った。真理雄は白衣の胸ポケットから取り出した老眼鏡をかけて、ノートを丁寧に開いた。
「ああ……悠太君の字だ……色々……色々あったよねぇ」真理雄は感慨深げに言った。
「ねぇ真理雄君。私たちの人生は、とっても、とっても素敵な人生だったわよね?」美咲は真理雄に優しい笑顔で問いかけた。
 
 真理雄は窓の外に視線を移し、もっと遠くを見ながら言った。「過去形にするのはまだ早いよ。僕たちはまだゴールまで泳ぎ切っていないから、足をつく事が許されていない現役のスイマーだ。静かな水も、荒れる大波の海も、それぞれ得意な泳ぎ方で泳ぎ続けるスイマーだよ」少し悲しげな笑顔で美咲を見た。

 真理雄は椅子に座った翔子に顔を向けた。「翔子さん。美咲さんが転院するホスピスはね、この病院の系列で医療体制も万全に整ったホスピスだから、安心していいからね。美咲さんが育てたような看護師や医師ばかりだから、みんなは戦々恐々かもしれないけれどね。怖かったんだよ?あなたのお母さん。現役の医師時代は。美咲さんが生まれ育った町の近くにある、海の音が聞こえる、環境が良いところだ。翔子さんも遊びに行くにはちょうど良い距離だろうし」話を遮るようにベッド上の美咲が言った。

 「悠太君と初めて言葉を交わして、初めて想いを告げて、受け入れてもらえなかったけれど、二人を強く結んだ大切な場所だわ。真理雄君の政治力を使わせちゃったわね。ありがとう」
 真理雄は肩をすくめて言った。「僕に政治力なんてないよ。たまたま総理大臣の命をつないだり、たまたま皇室関係者の命をつないだ結果として、ちょっと味方が増えただけさ」
 
 椅子に座ったままで翔子は真理雄に聞いた。「院長先生は、お父さんと若いころからの知り合いなんですね?」
 真理雄はクロールの手ぶりをして言った。「僕と悠太君は、小学生の頃からのスイマー仲間だよ。中学の頃から親友になって、高校の時から、そうだね、戦友になった。僕と悠太君はお互いの背中を任せられる。そんな関係だったね」
 噛みつくように翔子が言った。
「響子さん。響子さんって知ってまよね?お母さんのことを競泳のコーチだった、って言ったり、海外留学していた、って言ったり、おかしいな?って思うことが色々あったんですけど、それってお母さんじゃなくって、響子さんって人の事じゃないですか?」

 真理雄はチラッとベッドの美咲を見るとクスクスっと笑っている。真理雄は翔子の顔を見て言った。「医療的に言えば、記憶の混濁ってやつだよね。人間はわからないを怖がるから、穴が開いている記憶を、模造記憶で埋めてわかるに変えていくんだ。美咲ちゃん……あなたのお母さんはね、悠太君の記憶の穴を全部ひとりで埋めたんだ。僕だったら5つくらいの穴埋めでヒザを折ってしまうような、とても苦しい作業をひとりで何百回も何千回もやってのけた。とんでもない頭の良さと、本当に強い心を持っていないとできない作業だよ。色々な意味で、心から尊敬していますよ。僕はね」

「じゃあ院長先生は、その日記に書かれている内容も、全部知っているって事ですか?母はお父さんだけが失くした、お父さんの時間って言ってたけれど……」
「さすが美咲ちゃん。うまいこと言うね。そう、悠太君だけが失くした、僕らの中には強く刻まれた悠太君の時間。翔子さんのおじいさん、つまり悠太君のお父さんがね、悠太君が失くした時間を持つ権利があるのは、美咲ちゃんだけだって、この日記を渡したんだよ」

 翔子は美咲に言った。「他の女との記憶を、お母さんに入れ替えるなんて、それを納得してるなんて、お父さんもお母さんおかしいよ。全然理解できない。私こんな気持ちでお母さんをホスピスに送れない」
 美咲はさらにクスクス笑いながら言った。「翔子には悪いけれど、私は悠太君のいないこの世界に、未練も興味もないわ。だからホスピスで、海の音を聞きながら、少ない痛みで死にたいの。それに悠太君のすべてが私のものになったのよ?悠太君はすべての記憶を、私との記憶に書き換えてくれたんだもん。私にとって願ったりかなったりじゃないの。私ね、高校生の時に悠太君に言ったの。長い時間をかけて私で満たしてみせるって。宣言通りになったわ。私の悠太君に対する愛の勝利ね」美咲は満足げに笑った。

 ――トントントン
 
 また部屋にノックの音が響いた。
「失礼しま~す」ドアを開けた看護師は、病室内の美咲と真理雄を見て緊張した表情になった。
「失礼しました。安田先生、神波院長。また出直します」看護師は身体の向きをひるがえして、ドアの外に出た。
 
 真理雄は翔子に言った。「ほらね?僕は院長なのに、先に安田先生って言ってたでしょ?怖かったんだよ。あなたのお母さん」
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