ReTake2222回目の世界の安田雄太という世界線
エピローグ
「私が働くこの場所は日本最高峰医療機関です。敬愛する先生方は、給付と医療エビデンスを同じ土俵に上げるはずがないと思っております。日本最高の医療が必要ではない患者には、期間など関係なくベッドを開けてもらうべきですし、日本最高の医療が必要である患者には、期間など関係なくベッドを使わせるべきです。私が属していた応慶やら3流大学付属じゃあるまいし。私の勉強不足からくる認知錯誤とは思いますが、この日本最高の国立大付属で行われているカンファにおいて、給付を起点にしたご提案が起こるなんて、ありえない事であるとの前提を持ちつつ、私の誤認であることの確認をしたく存じます」
20人以上の医師が会議室に集まっている中で、医長から「3か月を超えた段階での転院を」などという発言があったので、1グラムでもそのような心配をあの病室に持ち込ませない為、できうる事をしておく必要があった。
30歳でやっと独り歩きを始めた程度で外様の、しかも女医が。
彼女は良くも悪くも言葉は少ない。それが彼女の化粧に対する事であったとしても、指導された事に対して反論や文句を言った事はない。無茶苦茶な嫌がらせとしか思えない要求だったとしても、人間ができる事であれば、彼女の能力でできない訳がないと自負している。言われた事は、相手が望む半分の時間で完遂させる。それが理由で要求が増えていく事もあるが、その場合でさえ、彼女は相手の要求の半分の時間で完遂させる。ひと言の文句や反論もせずに。
だから医長や先輩医師は目を丸くしている。「静かで良い子のお嬢ちゃん」が、突然牙をむいて吠え始めたからだ。
彼女の指導医である上村主任医師が割って入った。「とにかくこの患者は私が指導医として監督している黒田先生が、私と相談しながら日本最高峰大学の学部付属としての医療提供をですね、共にしていこうと。前提としての3か月ではなく、高度医療の必要性に応じた最高学府としての高い意識を忘れる事なきよう、基本中の基本をですね、今後も指導しながら進めていく所存でございます」笑いたくなる意味のない日本語である。
「しっかり指導していきたまえ」的な発言が、あちらこちらから出ていた。
今回の彼女の発言は、彼女が手に入れたい結果に最も近いかと言われれば、悪手ではないものの、感情も絡んだ手ではないか?と、咎められる毛色はある。でも更にその先の事も踏まえての手であるともいえるので、まあ問題ないだろう。と彼女は自分自身の行動をアセスメントしていた。ただの交通事故患者として、このまま流させる訳にはいかない。
彼女は国東大学救命センターに勤める医師だ。結果的に救命医として現場にいる。救命医になる等とは、考えもしなかったが。
2か月ほど前、夜間の勤務を終えた美咲は、ナースステーションの片隅にあるパソコンでカルテ作成をしていた。大学院に籍を置く研修医から、専攻医となり、専門医となって間もない。さらに国立大学付属医療機関において、私立大学出身の外様は扱いが甚だ酷い。一般社会に比べれば、男尊女卑の傾向も50年前のレベルだ。
訳あって選んだ選択だったが、ちょっとした反骨心から選んだ道は正しかったのか?やや自信を失いかけてもいる。
―― ビビービビー 交通事故 レベル三次救急 JCS300RA 左足開放粉砕 顔面開放粉砕 眼球露出
「うわぁ~……帰れないんじゃないの?……」かなり大きな事故であろう患者の、緊急受け入れ要請の受諾放送を聞いた美咲は思った。
パソコンでスケジュールを確認すると、今日の勤務メンバーに神波真理雄の名前を見つけた。美咲はパソコンにロックをかけて席を立た。
三次救命の処置室はベッドが20以上入る大きな部屋だ。三次救急の場合、ほぼ全患者が常に医師の監視下に置く必要がある状態である為、患者の病室という概念ではなく、処置室という医師のテリトリーに患者がいる概念といえる。救命救急を出るまで、24時間処置が続けられる状態と言える。
美咲は1時間ほど前までいた処置室に戻ると、真理雄を見つけて声をかけた。
「どうする?」
「ああ、なんか嫌な予感するから」真理雄は患者の受け入れ準備をしながら、顔だけこちらに向けて答えた。
「了解」
少ない言葉で意思疎通を図った美咲は、今日は家に帰れないことを覚悟して、真理雄が進めている準備を逆の手順から追った。真理雄はまだ専攻医だが、能力が高く政治力にも長けており、ストレートでこの国立大学を進んできたいわばエリート中のエリートだ。救命などで人生を潰してはいかんだろうと美咲は思っている。真理雄が暮らす妻の実家がある海の町と、美咲が生まれ育った海の町が、すぐ隣である事が判明し、お互いの関わりが高校時代にあった事を知って親近感を持っている。
――ガシャン
三次救急の出入り口が派手に押し開かれる音がした。ガラガラとストレッチャーが押される音と、それを押す複数の声が聞こえる。初めのうちは、毎回「緊迫感」を感じていたが、最近ではこの音にも状況の緊迫度の違いが表れている事を知っている。
美咲はちらっと真理雄を見て言った。「ヤバいやつね」真理雄はうなずいた。
「神波先生、メインはあなたで。黒田先生バックアップ」と奥から主任医師の声が飛んできた。
「了解」二人は大きな声で返事をした。どんな世界でも、言った言わないを防ぐため、意思伝達と受任表明は重要だ。
処置室に救急隊がストレッチャーを押して入ってきた。救急隊はすでに状況報告を始めている。
「名前は安田悠太、男性、交通事故、患者は自転車に……」それ以降の報告が美咲の耳には入ってこなくなった。顔面が陥没して、あごが脱落し、右眼球が飛び出しているが、この肉体は、まぎれもなく、真理雄の親友であり、美咲の心を長い時間「独占」してきたあの悠太である。
真理雄の顔が一瞬変わり、すぐに戻った。美咲は表情が変わったまま、呆然と立ち尽くした。
「黒田先生!!」真理雄が怒鳴るように言った。美咲は我に戻った。その場にいた全員は、この患者の生命と人生をできるだけ本来あるべきレールに押し戻す作業を開始した。
「しばらくの間、主治は神波先生。救命出た後はおそらく整形外科域になるのかな?整形、形成、眼科、脳外、口腔外科、精神科でのチームになります。よろしくお願いします」
2時間後には救命の主任医師を中心にしたカンファレンスが開催された。「眼科先行と形成外科が共同で顔面のオペを実施。その後整形による左脚義足化。ここまで48時間。脳外と精神科は落ち着いてからの検査。口腔外科はまだ先ですが。120時間以内ってところで、いかがですか?」
「整形の五十嵐です。義足化の前に保持オペをさせていただきたい。まだお若いし。自分の脚の方が良いでしょう」
「いやいや、無理でしょ?膝と足が肉片挟んで直結されてますよ?膝から足までの骨だって現場に転がっているでしょうし」
「救急隊の方が結構回収してくれているんですよ。チタン挟んでどうかワンチャンス」
「どう思われますか?」
「お若いので今後を踏まえれば」
「眼科先行は譲れませんよ?これ手順違えたら全盲ですよ?」
「形成としては眼科さんのサポート、主治医にはご家族から事故前の写真を何枚か頂いて欲しいです。顔がわからないと作りようがない」
「今流行りの、ほら、あのバンドのボーカルの顔とかで良いんじゃない?少しは事故で良い事ないと」
「ははは、好みってありますからね」
ガタッ――美咲が席を立った。
「どうしました?」
「すみません、緊急の呼び出しです」美咲はスマホを見せて部屋を出た。
鬼のような形相をした美咲は、喫煙室の中に一つだけ置いてあるコピー用紙の段ボール箱を思いっきり蹴った。一度大きく息を吸い、そして大きく吐いた。顔を天井に向けて、再度大きく深呼吸をした。
パッと顔を正面に向けると、先程までの形相からいつものクールな美人の美咲に戻っていた。
美咲が聞いた伝説によると、ある研修医が精神安定のために、コピー用紙が入った段ボールをこの部屋に置いたらしい。ボロボロになると、その遺志を受け継ぐ者がそっと交換しているそうだ。
その話を思い出し、ちょっと微笑んだ美咲は白衣をめくり、ズボンのポケットから煙草を取り出して一本口にくわた。ジッポーのオイルライターで火をつけて呟いた。「……自分が蹴る日が来るとはね」
――ガチャ
喫煙室のドアが開いた。美咲が顔を向けるとそこには真理雄がいた。
「美咲ちゃん……」先程まで、平然とした顔でカンファレンスに参加していた真理雄の瞳から、ブワッと涙が溢れだした。
美咲は煙草の煙を吐きながら呟いた。「まぁ、そうなるわよね」美咲の頬にも、一筋だけ涙が流れた。
生命維持は早い段階でクリアしたが、肉体のダメージは計り知れなく、特に顔面が上中下と三段に分割され、眼球まで飛び出すくらいの衝撃を受けた頭部への影響は大きかった。顔中に鋲を打ち、ワイヤーで顔を固定したの。口が開けず呼吸もできないため、首喉下に管を通して呼吸をさせ、顔から管を6本出して栄養補給をしたり余った体液を抜いていた。
家族が持ってきた写真をもとに、見事に再生された悠太の顔を見た時に、美咲は心底ホっとした。形成の結果に関してだけは、この病院に担ぎ込まれて本当に良かった。
その後10回以上のオペの結果として、2か月後には口を開く訓練が始まり、しゃべる事も徐々に出来るようになってきた。が、ここで問題は把握された。
これまでは限定的な筆談であったが、しゃべる事が可能になり、悠太は自分を悠太だと認識できておらず、自分の記憶を喪失している事が判明した。
頭部外傷による一時記憶喪失は、非常に一般的であるが、事故から2か月以上経過した段階で、全く覚えていないというのは数少ない。
それでも多くは、その後1年以内には記憶を取り戻すが、ごく稀に取り戻せない患者もいる。
職業柄、たくさんのケースに関わっていた美咲と真理雄は、肉体の事よりも、精神、脳神経ダメージの問題に注視していた。外から見えるわかりやすい手脚切断などの問題より、精神や神経といった、外部からわかりにくい問題の方が、患者を取り巻く環境には大きな影響を及ぼす事を知っていたからだ。
そんな中、医療保険の制度上、同じ病院で3か月を超える入院となった場合に、単価が減額される事に対する対応を求められたため、美咲は医長に牙をむいた。
記憶喪失の問題が解決するまでは、退院をしない方が絶対に良い。しかし初めから精神疾患での入院であれば保険単価の話もまた別だが、交通事故の整形外科的外傷が悠太の主疾患となる状況であるため、近いうちに救命救急の医師から、整形外科の医師へ主治医が変更される。
一般病棟へ移れば当然単価の問題から、退院についての話が病院から出る。これをどうにかしなければ……一般病棟に移る前に、現在の主治医である真理雄と美咲、家族とのカンファレンスを行う事となった。
カンファ日であっても、朝から朝まで運び込まれて来る患者の対応をする。カンファ前に売店で買ったサンドイッチを口に詰め込みながら、昨夜からのカルテを作成していた。
「黒田先生」真理雄が声をかけてきた。
「ああ、神波先生。お疲れ様」
「今日の悠太君のカンファ、大丈夫?」
「なに?大丈夫って?」
「いや、美咲ちゃん……黒田先生、この2か月ほとんど帰ってないでしょ?」
「ああ、仕事溜まっていたからね」
「違うでしょ。完全に状況に絡めとられてるよ」
「ヤダ、誰に向かって言ってるの?そんな訳ないでしょ」
「その発言自体だよ。自分の精神状態の状況認識ができていないよ。その状態で家族に会って……問題ない?」
「……ちゃんと医者やるわよ」美咲は目線をパソコンの画面に戻した。
――予定通りの時間でカンファレンスが開始された。
「響子コーチ、身体、無理していないですか?」
「ありがとう、真理雄君。本当に感謝している。真理雄君がいなかったら……ちょっとね、やばかったかも」
「悠太君との会話に変化はあった?」
「……ないね。面会に行くたびに、出会いから説明している感じ。ほら私、悠太にはずっとチヤホヤされてきたから……キツイね」
「あ、こちらは悠太君の副主治としてサポートについてくれている、黒田先生です」
「はじめまして」
「今回は、悠太の命を救ってくれて、ありがとうございました」
真理雄が仕切り直すように座り直して、少し他人行儀の口調に切り替えて言った。「安田さんの入院から、もうじき3か月になります。今後安田さんは救命救急から一般病棟に移ります。ご家族としてご心配な点があれば」
「心配だらけだよ。でもおかげで口から食べられるようになってきたし、久しぶりに声を聞いた時は……もう……」響子は泣き出した。
「おそらく整形外科病棟に移って、2週間くらいで退院になると考えているんだけど、自宅での受け入れはどうかな?」
「うん、私は働いていなかったし。2人で1つずつやっていくつもりだよ」
「悠太君は退院について何か言っている?」
「悠太と私の住んでいるところや、一緒に出掛けた話をすると、早く戻りたいって言ってるから。2人で頑張るよ」
「悠太君は自分の事、名前とか、何か思い出した気配はある?」
「毎日私が名前を呼んでいるし、看護師さんや先生にも呼ばれているだろうから、自分が安田悠太だって事はわかっていると思う。でもそれは思い出したのか、それともみんなにそう言われているからそうだって思っているのかについては……私にはわからないよ」
「あと2週間で、思い出せるかもしれないし、そうでないかもしれないし。過去を思い出せない悠太君との暮らしは、響子コーチが思っているより大変だと予想するんだけれど……僕としては心配は残ります」
「ずっと待たせて、やっと結婚して、これから子供作ってって時だったからね。今度は私が待ってあげるよ。2人であの家で暮らしながら」
ずっと黙って聞いていた美咲が言った。「奥様、ちょっとよろしいですか?」
「はい?」
「奥様が今想像しているよりも、精神的にとても苦しい状況が待っていると思います。それでも一つだけ約束して欲しいのです。安田さんは今、安田さんであり安田さんではない状態です。私の知っている限りでは、9割以上の患者さんが1年以内にある程度記憶を取り戻します。ですので、1年間は何があっても、絶対に人生の決断をしないでいただきたいのです。どんなに苦しくても、1年間は。どうか安田さんに時間を与えていただきたいのです。私は退院には反対です。なぜならご自宅での1年間を、お2人だけでお2人の関係を破綻させずにやり過ごす事ができる可能性は、とても低いと思っているからです。私がご本人を説得してもいい。今家に戻れば1年間、奥様はお1人で安田さんではない安田さんを支えなくてはならない。安田さんが思っているより、奥様が思っているより、ずっと厳しいご自宅の生活になるのです。思っていたのと違う事ばかりで、とても苦しい在宅生活になるでしょう。私から見れば、お2人ともそれを理解していない。今退院する事が、お2人の関係にとって、どれだけリスキーか理解していない。1度退院してしまえば、再入院は難しいのが現実です。だからどうか、できる限り入院期間を引き延ばし、奥様もレスパイトできる状況を延長し、安田さんが安田さんの下に戻ってくる時間を作ってあげていただきたいのです。このとおりです。どうかご理解を」美咲は立ち上がり、最も深く頭を下げた。頭を下げたまま、何度も入院を伸ばす事と、1年間の決断延長を繰り返していた。必死に繰り返していた。
「なんなんですか?私も悠太に帰ってきて欲しいし、悠太も家に帰りたいと言っているんですよ?覚悟決めて2人で頑張っていこうって思っている。それを病院が、しかも主治医ではないあなたが、そんな風に入院期間を延ばせとか必死に頭を下げるっておかしくないですか?何が目的ですか?」
真理雄が立ち上がって言った。「ちょっと待ってください2人とも。2人とも頭を冷やすべきだ」
響子は座ったままで顔を窓に向けて話し始めた。「ちょっと黙っていようと思ってたけど、私は黒田先生の顔を覚えているの。さすがに高校の時の事を引きずっているとは思わないけれど、ちょっと何が目的なのかわからないくらい逸脱した言動だと思うの」
美咲は響子の顔をまっすぐに見て言った。「海の家の出来事、覚えておられたのですね。それはすみません、配慮が足りませんでした。ですが、さすがにもう13年ほど前の子供だった頃の話です。今の私は、純粋に医師として、患者様の家族が壊れる要素は1つでも消し去りたいと思っているだけです。特に私たち救命救急は、目の前で起こる、人の生き死にの中で仕事をしています。だから鈍感にならなければできない側面もあります。そんな中で、直接治療行為とは関係ないところで壊れてしまうご家族をたくさん見てきています。だからそこは敏感になって、目に見えにくいリスクを知らないご家族に知ってもらい、それを回避させるのも医師の務めだと認識しいます。ただそれだけです。奥様に余計なご不安を与えてしまった事については、心からお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。ですが、どうか、患者様の命をつなぐ事が出来た今、患者様の幸せな毎日、奥様との毎日を失いかねないリスクが、まだそこにある事をご理解ください」美咲はまた、深々と頭を下げた。響子は黙り込んだ。
カンファレンスが終わり、自宅に戻ろうとしている響子を真理雄が呼び止めた。2人は良い天気だったので、中庭に出てベンチに座った。
「真理雄君、さっきはごめんね、ちょっとね、感情的になった。黒田先生にも謝っておいてね」
「あれを感情的なんて呼ばないよ。僕らの仕事はさ、響子コーチが考えるより相当修羅場の連続で、胸倉つかまれて殴られて、それで初めて感情的なご家族っていえるんじゃないかな?」真理雄は笑いながら言った。
「真理雄君がいなかったら、悠太は私を諦めていたかも知れないし、頭上がんないって思ってるんだよね」
「そんな事ないよ。悠太君の響子コーチに対するあの異常な執着は、僕が言うとシャレで済まないんだけど、中学の事から病気だよ。だからこそ、今の悠太君が響子コーチへの執着病を持った悠太君ではないという、その事実を理解できますか?響子コーチ」
「でもさ、面会で話をしていれば、何て言ったらいいか難しいけれど、それは悠太なんだよ。私はずっと悠太といるからそれはわかるよ。あれは悠太に間違いない」
「だけど悠太君じゃない。逆だったらまだよかったんだ。悠太君の顔が別人になってしまったけれど、中身が悠太君のままだったほうが、まだ、マシだった」
「それは困るよ。私のカワイイ悠太はイケメン悠太でなければ困るし。だから私に夢中な悠太が帰ってくるまで、イケメンだけど私を知らない悠太と待っているよ」
「僕たちは何も変わらずにココにいるから、僕たちの軸で感じて考えてしまうのは、もう避けようがないんだけれど。悠太君は今ココにはいないんだ。ビックリするほどの前提変更が起こったんだよ」
「悠太の好きな事を、悠太がメロメロになるやり方で、悠太の身体に思い出させてあげるわよ」
真理雄は響子がイメージしている状況と、実情の乖離を痛いほど把握していたけれど、これを響子に伝えるすべは持ち合わせていないのも把握している。
あとは投げられたサイコロが、自分の避けたい数字を指さない事を祈るしかないと思っていた。
美咲はただでさえ多忙な毎日の中で、自分の専門ではない精神、神経、記憶についての調査を進めている。睡眠時間は6時間程度しか取れていない。1週間で。
「そろそろアンフェタミンにでも手を出すか?メタンフェタミンよりかは幾分マシでしょ」そんな独り言が口からこぼれる。
これから確実に起こり得る、悠太君の自殺をどのように防ぐか?もはや関係を持てない自分が何ができるのか?法律を犯す事だっていとわないけれど、結果的に目的が履行できなくなる行動はしない。
とにかく記憶が戻らない悠太君を不安から守り、記憶が戻った悠太君を絶望から救う。この準備を整える必要がある。しかもそれを実際に実行できる方法で。人生で最高難度の、自分の存在価値を突き付けられたテスト問題だ。
美咲の脳というCPUは休む事なく最高周波数での高速演算を続けており、すでに熱暴走と言える状態だった。
「美咲ちゃん、呼び出して悪いね」
真理雄は屋外カフェのテーブルに座ってコーヒーを飲む彼女に声をかけた。残暑厳しい天気だったので、彼女はノースリーブの真っ白いマオカラーシャツにややタイトな黒のロングスカートを履いている。
「悪いとかなんとか。やめて」疲れ切った美咲は、一切の取り繕いが無い態度で、真理雄に言った。
真理雄も椅子に座りながら言った。「うん、わかったよ」彼は視線でウェイターを呼び、「エスプレッソを3杯、1つのカップで」と注文した。それを聞いて、とても深刻で厳しい表情を崩せずにいた彼女は、じわじわと表情が緩みだして笑い出した。
「最高ね。真理雄君」彼女にはわかっていた。自分だけがしんどい訳ではない事を。それでも、もはや取り繕う事すらできないくらい追い詰められている。真理雄がカフェイン漬けにならなければ、やっていられないと表明した。しかも論理的効率を考えて、3杯を1つのカップで。
「真理雄君だって泣きわめきたいはずよね……」彼女はつぶやいた。
悠太が病院に運び込まれた1週間後に、美咲は一方的に電話1本で婚約者に別れを告げた。6年の時間を自分のために費やしたその婚約者は、今頃カフェイン漬けか、アルコール漬けか、出刃包丁を買って美咲に復讐を遂げるか、復縁を迫るかもしれない訳だから、元婚約者にしたって同じ立場なのかもしれない。今回の流れは、関係者全員にとってキツ過ぎる。
「真理雄君、ゴメン。ちょっと状況がキツ過ぎてね。あたった」彼女は先ほどの無礼な態度を反省して謝罪した。真理雄は両手のひらを、肩のあたりで空に向けて、首を左右に振った。アメリカドラマみたいなジェスチャーだ。彼女はまた笑いだした。
真理雄が言った。「悠太君が退院して3か月経つけれど、精神科のカルテを見るには記憶は戻っていない。精神科医とご家族の面談でも、かなり不安定な生活状況とみるべきだろうと考えている。プライベートでも僕の妻が、悠太君の家に遊びに行ったり、一緒に食事に行ったりもしたようだけど、攻撃的になっている悠太君を、ご家族がなだめる事に疲れている様だと言っていた」
「私に気を使って、ご家族、なんて言わなくていいわよ」
「ごめん」
「私ね、これは医師としてではなくて。たぶん悠太君は離婚されると思うの。持ってあと3か月。やはり1年は持たないと思うの。精神疾患の患者と対峙する家族にかかる負担は、並大抵じゃないわ。まして突然今日からという状況は、本当にキツイ。響子さんはよく頑張っていると思う。それに完全記憶喪失の場合、双極性や鬱に比べて、特に家族にとって厳しくなる。片や元気に普通に生活をしている状況と、片やベッドから出てこれない状況では、家族が受け取るニュアンスは別物だわ。せめてあと半年……入院を引き延ばしたかった……」彼女は真理雄の向こう側の、若いカップルをぼんやり眺めながら言った。真理雄はウェイターが持ってきた「ザ・カフェイン」をゴクゴク飲んだ。彼女はまた吹き出した。
「僕は医師としてだけれど、響子コーチは強い人だよ。それと同時に儚い人だ。だから多分、この状態で彼女には圧倒的な、そう、浮き輪が必要だと思う。たぶんそれは、悠太君が最も望まない浮き輪になると思うんだ」
「男って事?」
「うん。だから遅かれ早かれ、美咲ちゃんの読み通りになると思う。でもそうなって欲しくない気持ちは、個人、真理雄という僕にとってはもう、すっごい強いよ。だって、彼の、悠太君の、少なくても14歳からの悠太君の人生は、響子コーチとの今日を迎える為だけに存在した時間だったからね」真理雄は、またゴクゴクとザ・カフェインを飲んだ。
それを見ていた美咲もコーヒーを口にしながら言った。「一番の問題はね、響子さんが浮き輪を使おうが使うまいが、離婚しようがしまいが、どっちにしても避けられない、悠太君の自殺企図なの。私はこれを防ぐためならなんだってやるわ。もはや医者じゃない。黒田美咲としてなんだってやる。そのために婚約も解消したわけだし」
「元婚約者さんの川野辺先生から電話があったよ。美咲ちゃんは元気にやっているか?って」
「私には……もったいない人だったわね」美咲はコーヒーを一気に飲み干した。
それからも今までの常人であれば十分倒れうるだけの過酷な日常は続き、その上で美咲も真理雄も、それぞれの思考を元に悠太の命を守るための準備を進めている。
実際には二人共に、準備は進めているが、何一つ積みあがらない現状であった。打つ手がない状態。この状況が余計に苛立たせる。
美咲と真理雄は、静かな夜の病院で、パソコンのキーボードをたたいていた。カタカタカタという音だけだ妙に響いていた。
「こんな静かな夜なんて……あるものなのね」美咲が独り言のように言った。珍しく深夜帯に3次救命の受け入れが1件もない夜だった。
「……美咲ちゃんの読み通りになったね……残念だけど」真理雄もキーボードをたたきながら独り言のように言った。
「誰だと思ってるのよ」美咲も独り言を続けた。
真理雄は手を止めて、疲れた目を抑えながら言った。「響子さんが浮き輪に手を伸ばしたかどうかは定かじゃないけれど……まあ、それはどっちでも関係ないけどね……」
「関係なくはないわよ。それ自体は関係ないけれど、それを悠太君が知ったのか知らなかったで、これからのリスクに大きな違いが生まれるわ」
「そうかなぁ?記憶を失くしている悠太君であれば、それは関係ないんじゃない?響子コーチへの執着は忘れている訳だし」
「嫌ぁねぇ、医者らしくもない事を言って。記憶は無くならないわよ。引き出せないだけ。保管庫から引き出せないだけなのよ。それが段ボールに詰められた腐ったイワシのように、悪臭が脳全体を覆って、段ボールから垂れ落ちる腐敗液が、周囲の健全な野菜まで腐らせるわ」
「美咲ちゃんこそ医者らしくもない。記憶は悪臭を放つ事はあっても、腐敗液は発生しないよ」
美咲は席を立って、真理雄のデスクに腰を掛けて、真理雄を少し見下ろす形で言った。「真理雄君。私が彼を支える。私の全てをかける。これは13年前に決まっていた事だわ。いや……もっと前からかもしれない。悠太君の平泳ぎを初めて見た時から。履行タイミングが来たから履行する。それだけよ」
「あえて言わせてもらうよ。美咲ちゃんが響子コーチに言ったように、あれは悠太君であって悠太君でないけれど。それは理解できているの?」
「誰だと思っているの?」
「だとしても、僕らは精神科医ではないけれど、現状がどれだけ厳しいかは理解しているんだよね?美咲ちゃんの仕事はどうするの?病院は?前提変更が大きすぎて、もはやスクラップアンドビルドしか残っていないように見えるよ。理解している?」
「なに言ってんの?見てみなさいよ。あなたの前にいる女を。もうとっくに壊し始めているじゃないの。良い子でやってきた私の立ち位置を壊して教授連中に噛みついて、6年がかりで口説いてくれた名の知れた心臓外科医がである婚約者を捨てて。スクラップはとっくに始めているわ。悠太君がこの病院に運び込まれたあの夜から。私は自分の人生を、とっくに壊し始めているわ」
真理雄は天井を見上げて、天井と同じ向きにある美咲を見て笑い出した。「フフフフ、そうだね。観察力が不足だね。僕は。さて、僕にできる事は?」
午前中の光が差し込む気持ちの良い日。美咲は電子カルテを見て、悠太が精神科受診に来るタイミングを見計らい、会計窓口がある大きなホールのソファーを見渡せる場所にいた。悠太の姿を見つけた。響子と離婚し東京に戻った父親と暮らしている事は把握している。悠太が一人でソファーに座って会計を待つ姿を見て、心が震えた。身体中震えた。美咲は悠太に向かって歩き出した。「時間をかけて……時間をかけて振り向かせてみせる……私を誰だと思っているの?」美咲はつぶやいた。
「私は病院を辞めるために、手続きを開始した。一切隠し立てすることなく。全部本当のことを言ったわ。怖いものは何もなかった。あるはずもない。悠太君を失うこと以外に怖いものなど。結局はいろいろな力が働いて……私がひどいことした元婚約者の有名心臓外科医が横やり入れて、結構助けてくれたみたいなんだけどね。私は病院を辞めるのではなく、地方の系列病院に異動となった。その地であなたを授かったの。お父さんの状態とか、私の年齢とか……無理だと思っていたので、ちょっと、青天の霹靂だったわね。その後も、私の勤務先は何度か変わったけれど、お父さんと私はセット販売での取り扱いだったから、家族全員いつでも一緒だったわね。悠太君が臨床検査技師で本当に良かったわよね。結局62歳で亡くなるまで、悠太君の記憶は戻らなかったということで」
美咲はベッドの上で、悠太の日記をパタンと閉じた。
翔子は顔を天井に向けて言った。
「私、もう36歳だから、大丈夫だから本当の事を教えて。私はお母さんの子供なの?」
美咲と真理雄は眼を大きく広げて数秒間見つめ合った。そして大笑いを始めた。それがしばらく続き、翔子は怒りをあらわにして怒鳴った。
「笑い事じゃないわよ!私はお父さんと響子さんの子供なんじゃないの?それともお母さんとその心臓外科医の元婚約者の子供なんじゃないの?!」
笑い涙を人差し指で拭いながら、ベッド上の美咲が言った。
「あなた想像力豊かなのねぇ。驚いたわ。まず前者の否定になるけれど、間違いなくあなたは私のおなかをけり破って出てきたの。結構難産だったのよ?覚えていないでしょうけれど。なんなら真理雄君の政治力で、当時の記録を探してみてもいいんじゃない?この病院の系列で産んでるから、研究のためにカルテ廃棄されないのよ。後者に関しての否定になるけど、悠太君以外と関係を持つなんて考えていなかったから、恥ずかしながらあの歳まで処女だったのよ、私。――高校3年生の夏から完全に凍り付いた私の心を、24歳から6年かけて徐々に徐々に時間をかけて溶かした男が一人だけいた訳だけど、結婚するまでは肉体を許すつもりはないなんて子供っぽい私のこだわりも受け入れてくれたわ。さすがの私でも単為生殖はできないから、これが後者の否定論拠ね。他に何かあるかしら?」
「お母さんは……幸せだったと言えるの?お父さんに人生を振り回されただけの、被害者だったんじゃないの?」
「いったい私のどこを見て幸せではなかったかもしれないなんて思えるの?冷静に見てみなさいよ。私が仕掛けたことではないけれど、どっちかって言えば悠太君が被害者なんじゃないの?私は悠太君が欲しかった。悠太君が落ちていた。私は悠太君を拾って私の名前を書いた。それだけじゃない。しかもあなたまで生まれたのよ?ちょっと凄くない?独り勝ちって言えない?」
「でもお父さんの記憶が戻ったら、突然戻ったら、お母さんはどうするつもりだったの?」
「じつはね、途中から思い出しているのでは?と感じる事は時々あったの。でも悠太君が自分から言い出さない限り、私は私と悠太君の真実を優先することにしたの。無論、悠太君が思い出したと言い出した時には、事実を優先するつもりだったわよ。結局最後まで、悠太君は私との真実以外、口にしなかったわ。悠太君が口にしないのだから、私の中では悠太君と響子さんとの時間なんて無いのと一緒。だから、結果的にはそれもどうでもいいわ」
「お父さんがそんなにまで夢中で愛した響子さんに対して……恨みとかやっかみとか、ないわけ?!」
「私には悠太君の響子さんに対する想いがある程度理解できるのよ。その想いは私が悠太君に持っている想いと同じだからね。わからないものは、わかりようがないと思うわ。でもわかるからわかる。ただそれだけよ。執着という言葉をとっくに通り越した異常性よね。角度によっては純愛に見えるし、角度によっては精神異常に見える。面白いけどそれが現実よ。私は悠太君に対して、異常なまでの執着を持ったの。だから他のことはどうでもよかった。あなたが感じる気持ちはわからないではないの。でもね、私には響子さんの事はどうでもいいのよ。悠太君が抱いた響子さんへの想いと、私が悠太君に抱いた想いは別の話なんだから。悠太君が私と生きたのは事実で、悠太君が響子さんと生きた時間の全ては、私と生きた時間として認知された。私にとってはそれが全て。自分の望みが全て叶った結果よね。完全優勝ってところかしら?強いて……強いて言うならよ?悠太君は私にたくさんありがとうって言ってくれたけれど、時々は好きだよとも言ってくれたけれど、大好きって言葉は言ってくれなかったから……そこはね、もう一押しが足りなかったかなとは思うわね」
「もし響子さんが、後からよりを戻したいって連絡してきたら?」
「まず何より、響子さんがその後どうなったかも知らないし、興味もなかった。悠太君のこと以外、私はすごく薄情よ。だって、私が持っている情の全ては悠太君に使っていたから。他の人に回すゆとりはなかったわ。翔子だけはね、悠太君の子だから。悠太君が私と生きた証だもん。元気でいてもらわなければ困るわ。だから響子さんが連絡してきたとしても、それを叩き潰すだけだよ。私と悠太君の邪魔をするものは全部全力で叩き潰す。それだけ。ね?クレイジーでしょ?私はクレイジーなの。だからね、響子さんがどんな思いを持つかとか、もし悠太君が記憶を取り戻したらとか、どうでもよかったし、考えるつもりもさらさらなかったの。だって、人の気持ちなんてわかる訳無いんだから。私は私の気持ちだけを考えて実行する。結果として悠太君が私のものになった。それだけでよかったし、それ以外何もいらなかった。自分が望む結果が出ている今、そうじゃなかったらなんてシミュレートする意義も意味もないんだから」
真理雄がうなずきながら、病室のドアに向かって歩き出した。ドアの手前で振り向いて言った。
「翔子さん。僕は全部知っている。みんなが知らない事まで全部ね。あなたは悠太君と美咲さんの子供で間違いないよ。医師が手を出すと面倒なことになると思っている量子力学的に言うとね、この世界線においてはあなたは悠太君と美咲さんの子供だよ。面白いくらいにたくさんの物語が溢れていて、それらの物語はつながっていて、つながっていない。翔子さんが今ここにいるこの世界はね、いうなれば何気なくスーパーで買い物をしたら、その金額が¥2222だったっていうくらいの、普通で不思議な、必然と偶然が生み出したもでしかないんだから。どこにでもある、ごくありふれた奇跡の物語。特別で普通な、物語の一つだよ。奇跡が生んだ翔子さんの人生を楽しんで生きてね」
真理雄は満面の微笑みで、二人に手を振って病室を出た。
20人以上の医師が会議室に集まっている中で、医長から「3か月を超えた段階での転院を」などという発言があったので、1グラムでもそのような心配をあの病室に持ち込ませない為、できうる事をしておく必要があった。
30歳でやっと独り歩きを始めた程度で外様の、しかも女医が。
彼女は良くも悪くも言葉は少ない。それが彼女の化粧に対する事であったとしても、指導された事に対して反論や文句を言った事はない。無茶苦茶な嫌がらせとしか思えない要求だったとしても、人間ができる事であれば、彼女の能力でできない訳がないと自負している。言われた事は、相手が望む半分の時間で完遂させる。それが理由で要求が増えていく事もあるが、その場合でさえ、彼女は相手の要求の半分の時間で完遂させる。ひと言の文句や反論もせずに。
だから医長や先輩医師は目を丸くしている。「静かで良い子のお嬢ちゃん」が、突然牙をむいて吠え始めたからだ。
彼女の指導医である上村主任医師が割って入った。「とにかくこの患者は私が指導医として監督している黒田先生が、私と相談しながら日本最高峰大学の学部付属としての医療提供をですね、共にしていこうと。前提としての3か月ではなく、高度医療の必要性に応じた最高学府としての高い意識を忘れる事なきよう、基本中の基本をですね、今後も指導しながら進めていく所存でございます」笑いたくなる意味のない日本語である。
「しっかり指導していきたまえ」的な発言が、あちらこちらから出ていた。
今回の彼女の発言は、彼女が手に入れたい結果に最も近いかと言われれば、悪手ではないものの、感情も絡んだ手ではないか?と、咎められる毛色はある。でも更にその先の事も踏まえての手であるともいえるので、まあ問題ないだろう。と彼女は自分自身の行動をアセスメントしていた。ただの交通事故患者として、このまま流させる訳にはいかない。
彼女は国東大学救命センターに勤める医師だ。結果的に救命医として現場にいる。救命医になる等とは、考えもしなかったが。
2か月ほど前、夜間の勤務を終えた美咲は、ナースステーションの片隅にあるパソコンでカルテ作成をしていた。大学院に籍を置く研修医から、専攻医となり、専門医となって間もない。さらに国立大学付属医療機関において、私立大学出身の外様は扱いが甚だ酷い。一般社会に比べれば、男尊女卑の傾向も50年前のレベルだ。
訳あって選んだ選択だったが、ちょっとした反骨心から選んだ道は正しかったのか?やや自信を失いかけてもいる。
―― ビビービビー 交通事故 レベル三次救急 JCS300RA 左足開放粉砕 顔面開放粉砕 眼球露出
「うわぁ~……帰れないんじゃないの?……」かなり大きな事故であろう患者の、緊急受け入れ要請の受諾放送を聞いた美咲は思った。
パソコンでスケジュールを確認すると、今日の勤務メンバーに神波真理雄の名前を見つけた。美咲はパソコンにロックをかけて席を立た。
三次救命の処置室はベッドが20以上入る大きな部屋だ。三次救急の場合、ほぼ全患者が常に医師の監視下に置く必要がある状態である為、患者の病室という概念ではなく、処置室という医師のテリトリーに患者がいる概念といえる。救命救急を出るまで、24時間処置が続けられる状態と言える。
美咲は1時間ほど前までいた処置室に戻ると、真理雄を見つけて声をかけた。
「どうする?」
「ああ、なんか嫌な予感するから」真理雄は患者の受け入れ準備をしながら、顔だけこちらに向けて答えた。
「了解」
少ない言葉で意思疎通を図った美咲は、今日は家に帰れないことを覚悟して、真理雄が進めている準備を逆の手順から追った。真理雄はまだ専攻医だが、能力が高く政治力にも長けており、ストレートでこの国立大学を進んできたいわばエリート中のエリートだ。救命などで人生を潰してはいかんだろうと美咲は思っている。真理雄が暮らす妻の実家がある海の町と、美咲が生まれ育った海の町が、すぐ隣である事が判明し、お互いの関わりが高校時代にあった事を知って親近感を持っている。
――ガシャン
三次救急の出入り口が派手に押し開かれる音がした。ガラガラとストレッチャーが押される音と、それを押す複数の声が聞こえる。初めのうちは、毎回「緊迫感」を感じていたが、最近ではこの音にも状況の緊迫度の違いが表れている事を知っている。
美咲はちらっと真理雄を見て言った。「ヤバいやつね」真理雄はうなずいた。
「神波先生、メインはあなたで。黒田先生バックアップ」と奥から主任医師の声が飛んできた。
「了解」二人は大きな声で返事をした。どんな世界でも、言った言わないを防ぐため、意思伝達と受任表明は重要だ。
処置室に救急隊がストレッチャーを押して入ってきた。救急隊はすでに状況報告を始めている。
「名前は安田悠太、男性、交通事故、患者は自転車に……」それ以降の報告が美咲の耳には入ってこなくなった。顔面が陥没して、あごが脱落し、右眼球が飛び出しているが、この肉体は、まぎれもなく、真理雄の親友であり、美咲の心を長い時間「独占」してきたあの悠太である。
真理雄の顔が一瞬変わり、すぐに戻った。美咲は表情が変わったまま、呆然と立ち尽くした。
「黒田先生!!」真理雄が怒鳴るように言った。美咲は我に戻った。その場にいた全員は、この患者の生命と人生をできるだけ本来あるべきレールに押し戻す作業を開始した。
「しばらくの間、主治は神波先生。救命出た後はおそらく整形外科域になるのかな?整形、形成、眼科、脳外、口腔外科、精神科でのチームになります。よろしくお願いします」
2時間後には救命の主任医師を中心にしたカンファレンスが開催された。「眼科先行と形成外科が共同で顔面のオペを実施。その後整形による左脚義足化。ここまで48時間。脳外と精神科は落ち着いてからの検査。口腔外科はまだ先ですが。120時間以内ってところで、いかがですか?」
「整形の五十嵐です。義足化の前に保持オペをさせていただきたい。まだお若いし。自分の脚の方が良いでしょう」
「いやいや、無理でしょ?膝と足が肉片挟んで直結されてますよ?膝から足までの骨だって現場に転がっているでしょうし」
「救急隊の方が結構回収してくれているんですよ。チタン挟んでどうかワンチャンス」
「どう思われますか?」
「お若いので今後を踏まえれば」
「眼科先行は譲れませんよ?これ手順違えたら全盲ですよ?」
「形成としては眼科さんのサポート、主治医にはご家族から事故前の写真を何枚か頂いて欲しいです。顔がわからないと作りようがない」
「今流行りの、ほら、あのバンドのボーカルの顔とかで良いんじゃない?少しは事故で良い事ないと」
「ははは、好みってありますからね」
ガタッ――美咲が席を立った。
「どうしました?」
「すみません、緊急の呼び出しです」美咲はスマホを見せて部屋を出た。
鬼のような形相をした美咲は、喫煙室の中に一つだけ置いてあるコピー用紙の段ボール箱を思いっきり蹴った。一度大きく息を吸い、そして大きく吐いた。顔を天井に向けて、再度大きく深呼吸をした。
パッと顔を正面に向けると、先程までの形相からいつものクールな美人の美咲に戻っていた。
美咲が聞いた伝説によると、ある研修医が精神安定のために、コピー用紙が入った段ボールをこの部屋に置いたらしい。ボロボロになると、その遺志を受け継ぐ者がそっと交換しているそうだ。
その話を思い出し、ちょっと微笑んだ美咲は白衣をめくり、ズボンのポケットから煙草を取り出して一本口にくわた。ジッポーのオイルライターで火をつけて呟いた。「……自分が蹴る日が来るとはね」
――ガチャ
喫煙室のドアが開いた。美咲が顔を向けるとそこには真理雄がいた。
「美咲ちゃん……」先程まで、平然とした顔でカンファレンスに参加していた真理雄の瞳から、ブワッと涙が溢れだした。
美咲は煙草の煙を吐きながら呟いた。「まぁ、そうなるわよね」美咲の頬にも、一筋だけ涙が流れた。
生命維持は早い段階でクリアしたが、肉体のダメージは計り知れなく、特に顔面が上中下と三段に分割され、眼球まで飛び出すくらいの衝撃を受けた頭部への影響は大きかった。顔中に鋲を打ち、ワイヤーで顔を固定したの。口が開けず呼吸もできないため、首喉下に管を通して呼吸をさせ、顔から管を6本出して栄養補給をしたり余った体液を抜いていた。
家族が持ってきた写真をもとに、見事に再生された悠太の顔を見た時に、美咲は心底ホっとした。形成の結果に関してだけは、この病院に担ぎ込まれて本当に良かった。
その後10回以上のオペの結果として、2か月後には口を開く訓練が始まり、しゃべる事も徐々に出来るようになってきた。が、ここで問題は把握された。
これまでは限定的な筆談であったが、しゃべる事が可能になり、悠太は自分を悠太だと認識できておらず、自分の記憶を喪失している事が判明した。
頭部外傷による一時記憶喪失は、非常に一般的であるが、事故から2か月以上経過した段階で、全く覚えていないというのは数少ない。
それでも多くは、その後1年以内には記憶を取り戻すが、ごく稀に取り戻せない患者もいる。
職業柄、たくさんのケースに関わっていた美咲と真理雄は、肉体の事よりも、精神、脳神経ダメージの問題に注視していた。外から見えるわかりやすい手脚切断などの問題より、精神や神経といった、外部からわかりにくい問題の方が、患者を取り巻く環境には大きな影響を及ぼす事を知っていたからだ。
そんな中、医療保険の制度上、同じ病院で3か月を超える入院となった場合に、単価が減額される事に対する対応を求められたため、美咲は医長に牙をむいた。
記憶喪失の問題が解決するまでは、退院をしない方が絶対に良い。しかし初めから精神疾患での入院であれば保険単価の話もまた別だが、交通事故の整形外科的外傷が悠太の主疾患となる状況であるため、近いうちに救命救急の医師から、整形外科の医師へ主治医が変更される。
一般病棟へ移れば当然単価の問題から、退院についての話が病院から出る。これをどうにかしなければ……一般病棟に移る前に、現在の主治医である真理雄と美咲、家族とのカンファレンスを行う事となった。
カンファ日であっても、朝から朝まで運び込まれて来る患者の対応をする。カンファ前に売店で買ったサンドイッチを口に詰め込みながら、昨夜からのカルテを作成していた。
「黒田先生」真理雄が声をかけてきた。
「ああ、神波先生。お疲れ様」
「今日の悠太君のカンファ、大丈夫?」
「なに?大丈夫って?」
「いや、美咲ちゃん……黒田先生、この2か月ほとんど帰ってないでしょ?」
「ああ、仕事溜まっていたからね」
「違うでしょ。完全に状況に絡めとられてるよ」
「ヤダ、誰に向かって言ってるの?そんな訳ないでしょ」
「その発言自体だよ。自分の精神状態の状況認識ができていないよ。その状態で家族に会って……問題ない?」
「……ちゃんと医者やるわよ」美咲は目線をパソコンの画面に戻した。
――予定通りの時間でカンファレンスが開始された。
「響子コーチ、身体、無理していないですか?」
「ありがとう、真理雄君。本当に感謝している。真理雄君がいなかったら……ちょっとね、やばかったかも」
「悠太君との会話に変化はあった?」
「……ないね。面会に行くたびに、出会いから説明している感じ。ほら私、悠太にはずっとチヤホヤされてきたから……キツイね」
「あ、こちらは悠太君の副主治としてサポートについてくれている、黒田先生です」
「はじめまして」
「今回は、悠太の命を救ってくれて、ありがとうございました」
真理雄が仕切り直すように座り直して、少し他人行儀の口調に切り替えて言った。「安田さんの入院から、もうじき3か月になります。今後安田さんは救命救急から一般病棟に移ります。ご家族としてご心配な点があれば」
「心配だらけだよ。でもおかげで口から食べられるようになってきたし、久しぶりに声を聞いた時は……もう……」響子は泣き出した。
「おそらく整形外科病棟に移って、2週間くらいで退院になると考えているんだけど、自宅での受け入れはどうかな?」
「うん、私は働いていなかったし。2人で1つずつやっていくつもりだよ」
「悠太君は退院について何か言っている?」
「悠太と私の住んでいるところや、一緒に出掛けた話をすると、早く戻りたいって言ってるから。2人で頑張るよ」
「悠太君は自分の事、名前とか、何か思い出した気配はある?」
「毎日私が名前を呼んでいるし、看護師さんや先生にも呼ばれているだろうから、自分が安田悠太だって事はわかっていると思う。でもそれは思い出したのか、それともみんなにそう言われているからそうだって思っているのかについては……私にはわからないよ」
「あと2週間で、思い出せるかもしれないし、そうでないかもしれないし。過去を思い出せない悠太君との暮らしは、響子コーチが思っているより大変だと予想するんだけれど……僕としては心配は残ります」
「ずっと待たせて、やっと結婚して、これから子供作ってって時だったからね。今度は私が待ってあげるよ。2人であの家で暮らしながら」
ずっと黙って聞いていた美咲が言った。「奥様、ちょっとよろしいですか?」
「はい?」
「奥様が今想像しているよりも、精神的にとても苦しい状況が待っていると思います。それでも一つだけ約束して欲しいのです。安田さんは今、安田さんであり安田さんではない状態です。私の知っている限りでは、9割以上の患者さんが1年以内にある程度記憶を取り戻します。ですので、1年間は何があっても、絶対に人生の決断をしないでいただきたいのです。どんなに苦しくても、1年間は。どうか安田さんに時間を与えていただきたいのです。私は退院には反対です。なぜならご自宅での1年間を、お2人だけでお2人の関係を破綻させずにやり過ごす事ができる可能性は、とても低いと思っているからです。私がご本人を説得してもいい。今家に戻れば1年間、奥様はお1人で安田さんではない安田さんを支えなくてはならない。安田さんが思っているより、奥様が思っているより、ずっと厳しいご自宅の生活になるのです。思っていたのと違う事ばかりで、とても苦しい在宅生活になるでしょう。私から見れば、お2人ともそれを理解していない。今退院する事が、お2人の関係にとって、どれだけリスキーか理解していない。1度退院してしまえば、再入院は難しいのが現実です。だからどうか、できる限り入院期間を引き延ばし、奥様もレスパイトできる状況を延長し、安田さんが安田さんの下に戻ってくる時間を作ってあげていただきたいのです。このとおりです。どうかご理解を」美咲は立ち上がり、最も深く頭を下げた。頭を下げたまま、何度も入院を伸ばす事と、1年間の決断延長を繰り返していた。必死に繰り返していた。
「なんなんですか?私も悠太に帰ってきて欲しいし、悠太も家に帰りたいと言っているんですよ?覚悟決めて2人で頑張っていこうって思っている。それを病院が、しかも主治医ではないあなたが、そんな風に入院期間を延ばせとか必死に頭を下げるっておかしくないですか?何が目的ですか?」
真理雄が立ち上がって言った。「ちょっと待ってください2人とも。2人とも頭を冷やすべきだ」
響子は座ったままで顔を窓に向けて話し始めた。「ちょっと黙っていようと思ってたけど、私は黒田先生の顔を覚えているの。さすがに高校の時の事を引きずっているとは思わないけれど、ちょっと何が目的なのかわからないくらい逸脱した言動だと思うの」
美咲は響子の顔をまっすぐに見て言った。「海の家の出来事、覚えておられたのですね。それはすみません、配慮が足りませんでした。ですが、さすがにもう13年ほど前の子供だった頃の話です。今の私は、純粋に医師として、患者様の家族が壊れる要素は1つでも消し去りたいと思っているだけです。特に私たち救命救急は、目の前で起こる、人の生き死にの中で仕事をしています。だから鈍感にならなければできない側面もあります。そんな中で、直接治療行為とは関係ないところで壊れてしまうご家族をたくさん見てきています。だからそこは敏感になって、目に見えにくいリスクを知らないご家族に知ってもらい、それを回避させるのも医師の務めだと認識しいます。ただそれだけです。奥様に余計なご不安を与えてしまった事については、心からお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。ですが、どうか、患者様の命をつなぐ事が出来た今、患者様の幸せな毎日、奥様との毎日を失いかねないリスクが、まだそこにある事をご理解ください」美咲はまた、深々と頭を下げた。響子は黙り込んだ。
カンファレンスが終わり、自宅に戻ろうとしている響子を真理雄が呼び止めた。2人は良い天気だったので、中庭に出てベンチに座った。
「真理雄君、さっきはごめんね、ちょっとね、感情的になった。黒田先生にも謝っておいてね」
「あれを感情的なんて呼ばないよ。僕らの仕事はさ、響子コーチが考えるより相当修羅場の連続で、胸倉つかまれて殴られて、それで初めて感情的なご家族っていえるんじゃないかな?」真理雄は笑いながら言った。
「真理雄君がいなかったら、悠太は私を諦めていたかも知れないし、頭上がんないって思ってるんだよね」
「そんな事ないよ。悠太君の響子コーチに対するあの異常な執着は、僕が言うとシャレで済まないんだけど、中学の事から病気だよ。だからこそ、今の悠太君が響子コーチへの執着病を持った悠太君ではないという、その事実を理解できますか?響子コーチ」
「でもさ、面会で話をしていれば、何て言ったらいいか難しいけれど、それは悠太なんだよ。私はずっと悠太といるからそれはわかるよ。あれは悠太に間違いない」
「だけど悠太君じゃない。逆だったらまだよかったんだ。悠太君の顔が別人になってしまったけれど、中身が悠太君のままだったほうが、まだ、マシだった」
「それは困るよ。私のカワイイ悠太はイケメン悠太でなければ困るし。だから私に夢中な悠太が帰ってくるまで、イケメンだけど私を知らない悠太と待っているよ」
「僕たちは何も変わらずにココにいるから、僕たちの軸で感じて考えてしまうのは、もう避けようがないんだけれど。悠太君は今ココにはいないんだ。ビックリするほどの前提変更が起こったんだよ」
「悠太の好きな事を、悠太がメロメロになるやり方で、悠太の身体に思い出させてあげるわよ」
真理雄は響子がイメージしている状況と、実情の乖離を痛いほど把握していたけれど、これを響子に伝えるすべは持ち合わせていないのも把握している。
あとは投げられたサイコロが、自分の避けたい数字を指さない事を祈るしかないと思っていた。
美咲はただでさえ多忙な毎日の中で、自分の専門ではない精神、神経、記憶についての調査を進めている。睡眠時間は6時間程度しか取れていない。1週間で。
「そろそろアンフェタミンにでも手を出すか?メタンフェタミンよりかは幾分マシでしょ」そんな独り言が口からこぼれる。
これから確実に起こり得る、悠太君の自殺をどのように防ぐか?もはや関係を持てない自分が何ができるのか?法律を犯す事だっていとわないけれど、結果的に目的が履行できなくなる行動はしない。
とにかく記憶が戻らない悠太君を不安から守り、記憶が戻った悠太君を絶望から救う。この準備を整える必要がある。しかもそれを実際に実行できる方法で。人生で最高難度の、自分の存在価値を突き付けられたテスト問題だ。
美咲の脳というCPUは休む事なく最高周波数での高速演算を続けており、すでに熱暴走と言える状態だった。
「美咲ちゃん、呼び出して悪いね」
真理雄は屋外カフェのテーブルに座ってコーヒーを飲む彼女に声をかけた。残暑厳しい天気だったので、彼女はノースリーブの真っ白いマオカラーシャツにややタイトな黒のロングスカートを履いている。
「悪いとかなんとか。やめて」疲れ切った美咲は、一切の取り繕いが無い態度で、真理雄に言った。
真理雄も椅子に座りながら言った。「うん、わかったよ」彼は視線でウェイターを呼び、「エスプレッソを3杯、1つのカップで」と注文した。それを聞いて、とても深刻で厳しい表情を崩せずにいた彼女は、じわじわと表情が緩みだして笑い出した。
「最高ね。真理雄君」彼女にはわかっていた。自分だけがしんどい訳ではない事を。それでも、もはや取り繕う事すらできないくらい追い詰められている。真理雄がカフェイン漬けにならなければ、やっていられないと表明した。しかも論理的効率を考えて、3杯を1つのカップで。
「真理雄君だって泣きわめきたいはずよね……」彼女はつぶやいた。
悠太が病院に運び込まれた1週間後に、美咲は一方的に電話1本で婚約者に別れを告げた。6年の時間を自分のために費やしたその婚約者は、今頃カフェイン漬けか、アルコール漬けか、出刃包丁を買って美咲に復讐を遂げるか、復縁を迫るかもしれない訳だから、元婚約者にしたって同じ立場なのかもしれない。今回の流れは、関係者全員にとってキツ過ぎる。
「真理雄君、ゴメン。ちょっと状況がキツ過ぎてね。あたった」彼女は先ほどの無礼な態度を反省して謝罪した。真理雄は両手のひらを、肩のあたりで空に向けて、首を左右に振った。アメリカドラマみたいなジェスチャーだ。彼女はまた笑いだした。
真理雄が言った。「悠太君が退院して3か月経つけれど、精神科のカルテを見るには記憶は戻っていない。精神科医とご家族の面談でも、かなり不安定な生活状況とみるべきだろうと考えている。プライベートでも僕の妻が、悠太君の家に遊びに行ったり、一緒に食事に行ったりもしたようだけど、攻撃的になっている悠太君を、ご家族がなだめる事に疲れている様だと言っていた」
「私に気を使って、ご家族、なんて言わなくていいわよ」
「ごめん」
「私ね、これは医師としてではなくて。たぶん悠太君は離婚されると思うの。持ってあと3か月。やはり1年は持たないと思うの。精神疾患の患者と対峙する家族にかかる負担は、並大抵じゃないわ。まして突然今日からという状況は、本当にキツイ。響子さんはよく頑張っていると思う。それに完全記憶喪失の場合、双極性や鬱に比べて、特に家族にとって厳しくなる。片や元気に普通に生活をしている状況と、片やベッドから出てこれない状況では、家族が受け取るニュアンスは別物だわ。せめてあと半年……入院を引き延ばしたかった……」彼女は真理雄の向こう側の、若いカップルをぼんやり眺めながら言った。真理雄はウェイターが持ってきた「ザ・カフェイン」をゴクゴク飲んだ。彼女はまた吹き出した。
「僕は医師としてだけれど、響子コーチは強い人だよ。それと同時に儚い人だ。だから多分、この状態で彼女には圧倒的な、そう、浮き輪が必要だと思う。たぶんそれは、悠太君が最も望まない浮き輪になると思うんだ」
「男って事?」
「うん。だから遅かれ早かれ、美咲ちゃんの読み通りになると思う。でもそうなって欲しくない気持ちは、個人、真理雄という僕にとってはもう、すっごい強いよ。だって、彼の、悠太君の、少なくても14歳からの悠太君の人生は、響子コーチとの今日を迎える為だけに存在した時間だったからね」真理雄は、またゴクゴクとザ・カフェインを飲んだ。
それを見ていた美咲もコーヒーを口にしながら言った。「一番の問題はね、響子さんが浮き輪を使おうが使うまいが、離婚しようがしまいが、どっちにしても避けられない、悠太君の自殺企図なの。私はこれを防ぐためならなんだってやるわ。もはや医者じゃない。黒田美咲としてなんだってやる。そのために婚約も解消したわけだし」
「元婚約者さんの川野辺先生から電話があったよ。美咲ちゃんは元気にやっているか?って」
「私には……もったいない人だったわね」美咲はコーヒーを一気に飲み干した。
それからも今までの常人であれば十分倒れうるだけの過酷な日常は続き、その上で美咲も真理雄も、それぞれの思考を元に悠太の命を守るための準備を進めている。
実際には二人共に、準備は進めているが、何一つ積みあがらない現状であった。打つ手がない状態。この状況が余計に苛立たせる。
美咲と真理雄は、静かな夜の病院で、パソコンのキーボードをたたいていた。カタカタカタという音だけだ妙に響いていた。
「こんな静かな夜なんて……あるものなのね」美咲が独り言のように言った。珍しく深夜帯に3次救命の受け入れが1件もない夜だった。
「……美咲ちゃんの読み通りになったね……残念だけど」真理雄もキーボードをたたきながら独り言のように言った。
「誰だと思ってるのよ」美咲も独り言を続けた。
真理雄は手を止めて、疲れた目を抑えながら言った。「響子さんが浮き輪に手を伸ばしたかどうかは定かじゃないけれど……まあ、それはどっちでも関係ないけどね……」
「関係なくはないわよ。それ自体は関係ないけれど、それを悠太君が知ったのか知らなかったで、これからのリスクに大きな違いが生まれるわ」
「そうかなぁ?記憶を失くしている悠太君であれば、それは関係ないんじゃない?響子コーチへの執着は忘れている訳だし」
「嫌ぁねぇ、医者らしくもない事を言って。記憶は無くならないわよ。引き出せないだけ。保管庫から引き出せないだけなのよ。それが段ボールに詰められた腐ったイワシのように、悪臭が脳全体を覆って、段ボールから垂れ落ちる腐敗液が、周囲の健全な野菜まで腐らせるわ」
「美咲ちゃんこそ医者らしくもない。記憶は悪臭を放つ事はあっても、腐敗液は発生しないよ」
美咲は席を立って、真理雄のデスクに腰を掛けて、真理雄を少し見下ろす形で言った。「真理雄君。私が彼を支える。私の全てをかける。これは13年前に決まっていた事だわ。いや……もっと前からかもしれない。悠太君の平泳ぎを初めて見た時から。履行タイミングが来たから履行する。それだけよ」
「あえて言わせてもらうよ。美咲ちゃんが響子コーチに言ったように、あれは悠太君であって悠太君でないけれど。それは理解できているの?」
「誰だと思っているの?」
「だとしても、僕らは精神科医ではないけれど、現状がどれだけ厳しいかは理解しているんだよね?美咲ちゃんの仕事はどうするの?病院は?前提変更が大きすぎて、もはやスクラップアンドビルドしか残っていないように見えるよ。理解している?」
「なに言ってんの?見てみなさいよ。あなたの前にいる女を。もうとっくに壊し始めているじゃないの。良い子でやってきた私の立ち位置を壊して教授連中に噛みついて、6年がかりで口説いてくれた名の知れた心臓外科医がである婚約者を捨てて。スクラップはとっくに始めているわ。悠太君がこの病院に運び込まれたあの夜から。私は自分の人生を、とっくに壊し始めているわ」
真理雄は天井を見上げて、天井と同じ向きにある美咲を見て笑い出した。「フフフフ、そうだね。観察力が不足だね。僕は。さて、僕にできる事は?」
午前中の光が差し込む気持ちの良い日。美咲は電子カルテを見て、悠太が精神科受診に来るタイミングを見計らい、会計窓口がある大きなホールのソファーを見渡せる場所にいた。悠太の姿を見つけた。響子と離婚し東京に戻った父親と暮らしている事は把握している。悠太が一人でソファーに座って会計を待つ姿を見て、心が震えた。身体中震えた。美咲は悠太に向かって歩き出した。「時間をかけて……時間をかけて振り向かせてみせる……私を誰だと思っているの?」美咲はつぶやいた。
「私は病院を辞めるために、手続きを開始した。一切隠し立てすることなく。全部本当のことを言ったわ。怖いものは何もなかった。あるはずもない。悠太君を失うこと以外に怖いものなど。結局はいろいろな力が働いて……私がひどいことした元婚約者の有名心臓外科医が横やり入れて、結構助けてくれたみたいなんだけどね。私は病院を辞めるのではなく、地方の系列病院に異動となった。その地であなたを授かったの。お父さんの状態とか、私の年齢とか……無理だと思っていたので、ちょっと、青天の霹靂だったわね。その後も、私の勤務先は何度か変わったけれど、お父さんと私はセット販売での取り扱いだったから、家族全員いつでも一緒だったわね。悠太君が臨床検査技師で本当に良かったわよね。結局62歳で亡くなるまで、悠太君の記憶は戻らなかったということで」
美咲はベッドの上で、悠太の日記をパタンと閉じた。
翔子は顔を天井に向けて言った。
「私、もう36歳だから、大丈夫だから本当の事を教えて。私はお母さんの子供なの?」
美咲と真理雄は眼を大きく広げて数秒間見つめ合った。そして大笑いを始めた。それがしばらく続き、翔子は怒りをあらわにして怒鳴った。
「笑い事じゃないわよ!私はお父さんと響子さんの子供なんじゃないの?それともお母さんとその心臓外科医の元婚約者の子供なんじゃないの?!」
笑い涙を人差し指で拭いながら、ベッド上の美咲が言った。
「あなた想像力豊かなのねぇ。驚いたわ。まず前者の否定になるけれど、間違いなくあなたは私のおなかをけり破って出てきたの。結構難産だったのよ?覚えていないでしょうけれど。なんなら真理雄君の政治力で、当時の記録を探してみてもいいんじゃない?この病院の系列で産んでるから、研究のためにカルテ廃棄されないのよ。後者に関しての否定になるけど、悠太君以外と関係を持つなんて考えていなかったから、恥ずかしながらあの歳まで処女だったのよ、私。――高校3年生の夏から完全に凍り付いた私の心を、24歳から6年かけて徐々に徐々に時間をかけて溶かした男が一人だけいた訳だけど、結婚するまでは肉体を許すつもりはないなんて子供っぽい私のこだわりも受け入れてくれたわ。さすがの私でも単為生殖はできないから、これが後者の否定論拠ね。他に何かあるかしら?」
「お母さんは……幸せだったと言えるの?お父さんに人生を振り回されただけの、被害者だったんじゃないの?」
「いったい私のどこを見て幸せではなかったかもしれないなんて思えるの?冷静に見てみなさいよ。私が仕掛けたことではないけれど、どっちかって言えば悠太君が被害者なんじゃないの?私は悠太君が欲しかった。悠太君が落ちていた。私は悠太君を拾って私の名前を書いた。それだけじゃない。しかもあなたまで生まれたのよ?ちょっと凄くない?独り勝ちって言えない?」
「でもお父さんの記憶が戻ったら、突然戻ったら、お母さんはどうするつもりだったの?」
「じつはね、途中から思い出しているのでは?と感じる事は時々あったの。でも悠太君が自分から言い出さない限り、私は私と悠太君の真実を優先することにしたの。無論、悠太君が思い出したと言い出した時には、事実を優先するつもりだったわよ。結局最後まで、悠太君は私との真実以外、口にしなかったわ。悠太君が口にしないのだから、私の中では悠太君と響子さんとの時間なんて無いのと一緒。だから、結果的にはそれもどうでもいいわ」
「お父さんがそんなにまで夢中で愛した響子さんに対して……恨みとかやっかみとか、ないわけ?!」
「私には悠太君の響子さんに対する想いがある程度理解できるのよ。その想いは私が悠太君に持っている想いと同じだからね。わからないものは、わかりようがないと思うわ。でもわかるからわかる。ただそれだけよ。執着という言葉をとっくに通り越した異常性よね。角度によっては純愛に見えるし、角度によっては精神異常に見える。面白いけどそれが現実よ。私は悠太君に対して、異常なまでの執着を持ったの。だから他のことはどうでもよかった。あなたが感じる気持ちはわからないではないの。でもね、私には響子さんの事はどうでもいいのよ。悠太君が抱いた響子さんへの想いと、私が悠太君に抱いた想いは別の話なんだから。悠太君が私と生きたのは事実で、悠太君が響子さんと生きた時間の全ては、私と生きた時間として認知された。私にとってはそれが全て。自分の望みが全て叶った結果よね。完全優勝ってところかしら?強いて……強いて言うならよ?悠太君は私にたくさんありがとうって言ってくれたけれど、時々は好きだよとも言ってくれたけれど、大好きって言葉は言ってくれなかったから……そこはね、もう一押しが足りなかったかなとは思うわね」
「もし響子さんが、後からよりを戻したいって連絡してきたら?」
「まず何より、響子さんがその後どうなったかも知らないし、興味もなかった。悠太君のこと以外、私はすごく薄情よ。だって、私が持っている情の全ては悠太君に使っていたから。他の人に回すゆとりはなかったわ。翔子だけはね、悠太君の子だから。悠太君が私と生きた証だもん。元気でいてもらわなければ困るわ。だから響子さんが連絡してきたとしても、それを叩き潰すだけだよ。私と悠太君の邪魔をするものは全部全力で叩き潰す。それだけ。ね?クレイジーでしょ?私はクレイジーなの。だからね、響子さんがどんな思いを持つかとか、もし悠太君が記憶を取り戻したらとか、どうでもよかったし、考えるつもりもさらさらなかったの。だって、人の気持ちなんてわかる訳無いんだから。私は私の気持ちだけを考えて実行する。結果として悠太君が私のものになった。それだけでよかったし、それ以外何もいらなかった。自分が望む結果が出ている今、そうじゃなかったらなんてシミュレートする意義も意味もないんだから」
真理雄がうなずきながら、病室のドアに向かって歩き出した。ドアの手前で振り向いて言った。
「翔子さん。僕は全部知っている。みんなが知らない事まで全部ね。あなたは悠太君と美咲さんの子供で間違いないよ。医師が手を出すと面倒なことになると思っている量子力学的に言うとね、この世界線においてはあなたは悠太君と美咲さんの子供だよ。面白いくらいにたくさんの物語が溢れていて、それらの物語はつながっていて、つながっていない。翔子さんが今ここにいるこの世界はね、いうなれば何気なくスーパーで買い物をしたら、その金額が¥2222だったっていうくらいの、普通で不思議な、必然と偶然が生み出したもでしかないんだから。どこにでもある、ごくありふれた奇跡の物語。特別で普通な、物語の一つだよ。奇跡が生んだ翔子さんの人生を楽しんで生きてね」
真理雄は満面の微笑みで、二人に手を振って病室を出た。